五月よとどまれ、君の記憶に。
この時、犠牲になった学生生徒の名簿を作ろうとした人がいました。今年4月、当局によって拘束された芸術家の艾未未です。地震の直後、ブログ上で行っていた名簿作りは、2008年12月からいわゆる「公民調査」として広く呼びかけられ、これを通じて数多くの名簿が作られるとともに、県や省、中央の政府機関に対して地震関連の情報や義捐金の使途などの詳細を公開するよう求めています。
この他にもさまざまな活動を行っている人なので、日本での報道を見ていると、建築家や芸術家というより「中国政府にとって目の上のたんこぶな人」という印象が強いです。
そこにきて、同じように中国のメディアの中では指折りのはねっ返り、広東省の南方都市報がやってくれました。まずは13日の毎日と産経(一次ソースは共同通信)から抜粋で。
9万人近い死者・行方不明者を出した08年の中国・四川大地震から12日で3年を迎えた。中国当局は復興の成果を強調する一方、手抜き工事が指摘された校舎倒壊問題への対応など政府の責任追及につながりかねない問題には神経をとがらせている。
12日付の中国共産党機関紙「人民日報」は復興までの胡錦濤指導部の対応を紹介した新華社の配信記事を1面トップで紹介。「中国の国民が共産党の指導の下でつくり出した奇跡だ」と総括した。しかし、犠牲者の数や被災者が今も直面する問題には触れていない。一方、独自報道で知られる広東省の日刊紙「南方都市報」は12日、地震の犠牲者について「証拠を集め、名前を呼びかけたことがあった。我々は決して彼らを忘れない」と記した社説を掲載した。校舎倒壊犠牲者の名簿づくりに取り組み、拘束中の現代芸術家、艾未未(アイウェイウェイ)氏を想起させる内容だ。
インターネット上では「手抜き工事がなくなることを祈りたい」といった感想が寄せられたが、社説や書き込みはネット上から削除されている。(略)
この「ロンドンで展示中の12匹の動物の銅像や磁器製のヒマワリの種など艾氏の作品」というのは、今月から欧米で展示が始まっており、CNN日本語版にも記事があります。中国広東省の有力紙、南方都市報が、拘束中の著名芸術家、艾未未氏への支持を暗に表明したとみられる記事を掲載、インターネット上で話題になっている。
艾氏拘束は国際的に批判を浴びており、当局は神経をとがらせている。同紙電子版からはすぐに削除されたが、ネットで転載され、同紙の"勇気"をたたえる声も出ている。記事は12日付。3周年を迎えた四川大地震の犠牲者に哀悼の意を示す論説で「死者に『鉄の十二支』と『磁器の種』をささげよう」と主張。ロンドンで展示中の12匹の動物の銅像や磁器製のヒマワリの種など艾氏の作品を指しているのは明らかで、犠牲者の追悼活動にも取り組んでいた艾氏への支持を強くにおわせた。
記事掲載にネットでは「よくやった」など称賛の声が書き込まれている。(共同)拘束の芸術家支持表明? 中国紙、ネットで話題に (産経新聞)
さてさて。では、その南方都市報の社説とはいったいどういうものだったのでしょうか。上の記事のとおり南方都市報のサイトからは既に削除されているようですが、翌13日の香港紙、明報がまるっと引用し転載する形で掲載しています。この辺はさすが明報。というわけで、さっそく全文を訳。明報版には小見出しがついていますが、そこはカットしました。冒頭の引用符の間が明報の文章で、それ以降が全て転載部分になります。中国政府を批判し、「経済犯罪」を理由に同国当局に拘束された著名芸術家、艾未未(アイ・ウェイウェイ)氏の展覧会がニューヨークで4日、始まった。
展覧会は「サークル・オブ・アニマルズ/ゾディアック・ヘッズ」と題され、マンハッタンのピューリツァー噴水に十二支の動物の頭をかたどったブロンズ像が並べられた。各像は高さ約3メートル、重さ約450キロで、大理石の土台の上に立てられている。拘束中の艾未未氏の展覧会 米ニューヨークで開催 (CNN/強調は引用者)
いやもう、広東や香港の文章は読んでいて疲れます。もっとも、誤訳が多かったり意味不明な文章が多いのは、相性の問題と言うよりも単に私の語学力が原因なんですけどね。実は、全く同じ事をふるまいよしこさんがブログ「§ 中 国 万 華 鏡 §」の「「時の流れに身を横たえ、彼らに思いを馳せる」」に書いています。なんてこったい。なので、このお話に関して詳しく知りたい人は、左のリンク先をクリックした方がいいよ! いやいや、こういう事を本職の後から出しても意味ないってのにね。でも全く自重しないおいら。"編:
昨日は四川地震から3周年を迎えた日だった。内地の『南方都市報』は社評欄に掲載した文章の中に、艾未未を想起させるような内容を含ませた。―――「我々にはこれより多くの事を為すための術がない。固まってしまったあなたたちの生命をまさに祀る象徴として、鉄でできた十二支を並べ、磁器でできた種を祀る他にない」
この「十二支」「磁器の種」は全て艾未未の芸術作品で、昨今相次いで海外で展示されている。
この社評が出された後、ネット版はすぐに削除されてしまった。だが、本紙は今日、特別に全文を掲載する。"今日は汶川地震から3周年の記念日にあたる。読者の皆さんは、我々の哀悼の意を知っている事だろう。あの大地震は山河を破壊し、8万人あまりの人々の命を奪いまたは行方不明にし、その哀しみは今日まで絶えず続いている。その嘆き悲しみは同胞たちが二度と帰らないからであり、それゆえに5月は悲しみの月となった。悲哀は、自らの無力さを感じる事に起因し、断ち切られた事に抗う事ができなかった別れのせいでもある。また節目の日が到来し、時間の流れに身を委ね彼らの事を回顧しても、そこには多くの問題がある事をはっきり認めなければならない。彼らとは誰か? 彼らはどんな事態に遭遇してしまったのか? 彼らはどこにいるのか? 我々に何をしてほしいと彼らは望んでいるのか?
かぐわしい木の枝、煙はゆらゆら立ち上り、虚空に消える。彼らは決して冷淡な数字上の存在ではない。彼らもかつては様々な名を持ち元気いっぱいに活動していた存在だったのだ。しかし彼らはその生涯を5月の廃墟の中に消し去ってしまった。彼らが楽しげにこの世に生きたのは7年間、あるいはより長かったり、より短かったりする歳月だ(訳註:艾未未が2009年にミュンヘンの美術館で展示した震災犠牲者追悼の意味を込めた作品を暗喩。艾未未はこの時、着色した大量のリュックサックを使い、「她在这个世界上开心地生活过七年(彼女は、この世界で7年間の楽しい生活を過ごした)」という文字を描いている。この言葉は自身で娘を失った母親が艾未未に書いた言葉に由来)。彼らは父母であり、子であり、姉妹であり、兄弟であり、黄色い肌の人間であった。彼らは集落の住人と旅人であり、山を越え川を渡る人たちであり、雲の浮き沈みを見ていた、全て実在の人物であった。彼らはあなたが出会ったことのある人または知らない人であり、大地に住む魂である。
生は偶然であり、死は必然である。3年前の今日、同じ時刻、午後、黄昏、闇夜は朽木のごとく訪れ、時間の流れは塞がれてしまった。血の赤、舞い上がった塵の灰色、目が眩む白、死神の服の袖の黒、彼らはそんな色の溢れる中に倒れ、不幸な作物のように、鋭利な刃物で殺されてしまった。彼らは全てを失い、彼らの老年、中年、青年、あるいは少年時代は、あまりに早く、そして余りに急に幕を下ろしてしまった。彼らは各種様々な破片と化し、鋭い縁を使い、日々の暮らしから涙を呼び起こし、郷里から姿を消した。
彼らは四方から来て八方に去った。彼らは本来ならもっと良い死に方があったはずだ。例えばもっと落ち着いた中で見送られ、さらに雨のように涙を流す事も認められただろう。その事を我々は残念に思う。慌しく、また慌しく、彼らは感傷的な村や街を永遠に離れ、今は岩の上に新緑のある山腹にいる。あるいは、なお彼らは学校に、路上に、地下に、無名の場所にいる。彼らと彼らは、まるで麦と麦がともに成長するように、一緒にいる。夏の日、彼らは最後の黄昏の中、我々の目が届かない場所に行ってしまった。彼らは生きる者にとって唯一の痛みであるとともに、唯一の慰めでもある。
我々は、彼らのために心の中に半旗を掲げ、哀悼日には彼らのために魂を呼び寄せ気遣い、彼らが人として生きた証を集め、彼らの名前を共に読み上げた。我々は、片時も忘れないと、脈々と絶やさないと、そう約束した。我々は多くの事を行ったが出来た事は非常に少ない。道に迷い帰って来られない者たちよ、あなたたちはどこにいるのだろうか? 私達が灯した明かりはあなたたちの歩む道を照らせているだろうか? 我々にはこれより多くの事を為すための術がない。固まってしまったあなたたちの生命をまさに祀る象徴として、鉄でできた十二支を並べ、磁器でできた種を祀る他にない。あなたたちは、我々にこれ以上何をしてほしいと思っているのだろうか?我々は、もう死が起きてしまった事を知っている。そして、忘失がすぐ傍で待ち構え、彼らの第二の死を待っている事も知っている。もし彼らを思い出さなければ、その忘失はますます強くなっていってしまう。今日の祭祀は彼らを忘れてしまう事を拒絶し、忘れる事によって彼らを再び失うことを拒むためのものだ。この先のメモリアル・デーも、その目的は他でもなく、一回一回その事を証明し彼らに示すことだ。我々はまだ離れ離れになっていない。我々は、例え死や恐怖に直面してもずっと共にある。それは刻まれるべき約束である。人は永久に別れる一方、永遠に共にいるのだから。それは我々にとって、全ての村、全ての街、良識ある国民に対し、受け継いだものなのだ。
塵から生まれたものは再び塵に返るが、そこには逃れられない責任が間違いなくある。それこそは我々の彼らに対する記念であり、学校の学生に対する記念であり、野山の農夫に対する記念であり、黄泥の彫刻たちの見る者に対する記念であり、家庭の死者に対する記念であり、花の墓に対する記念であり、生命の生命に対する記念である。我々はずっと忘れないし、彼らの方角に向けた目を逸らさない。我々の生活の中には彼らがいて、決して自分のためだけの暮らしではない。時の流れが互いを結びつけ、あたかも失ってしまった事すら無かったかのように、我々は再び共に集うことになる。
今日この時は喜ぶ事をやめ、我々の身を時の流れに乗せて彼らの普段の体勢になり、彼らのいる場所と願いを感じ取って、我々の対話と約束に気がつこう。彼らの去った後、どんな夜も安眠する事はできなかった。この3年間、我々は自分たちの原則を深く刻み、警戒心を高めた。五月は悲しみの時期であると同時に覚醒の時期でもある。彼らの望みを通じ、我々と人類との間の距離を測るのだ。大地の神に祈るのと同じように彼らを守ろう。彼らが我々を守ってくれているのと同じように。彼岸の彼らが安らかでありますように。時の流れに身を置き、彼らを思い出す (明報/強調は引用者)
閑話休題。記事中の強調部分のうち下の方が、産経や毎日も書いている「艾未未の事を書いたのではないか」とされている箇所です。ただ、読んだ限りでは前半の強調部分も艾未未の事を遠回しに言っているように見えるんですよね。この辺のやり口は、実に南方都市報っぽいなあと思うんですが(というか、そういう風に話題にならないと南方都市報とか南方周末を見ないんですけど)、一方で違った意見もありました。共同通信の古畑康雄さんのTwitterから、とあるポストを転載。
む。なるほど。半ばお祭り気分で訳し始めた部分もあるおいらは反省すべし、と思いました。ごめんなさい。確かにそうだ。必ずしも一部が全部に引っ張られちゃうわけではないけれど、この社説も下手をしたら四川大地震の追悼社説というより、艾未未に関する立て読み社説(立て読みじゃないけど)と取られかねない。いや、取られてますけどね。日本の新聞社が先日の地震に関して同じ事をやったらどうなるか、それはきっと大変なバッシングになると思う。そう考えると複雑な気分になります。南方都市報の削除された社説は、確かに震災で犠牲になった人たちを追悼するものだが、同時に艾未未氏拘束に抗議する"仕掛け"が織り込まれており、政治的なメッセージでもある。このあたりをどう評価するか。個人的には純粋な哀悼に留めるべきだったと思う。
Furuhata Yasuo 古畑康雄 (Twitter)
けれど、実際にはこの記事はほぼ全面的な肯定をもって中国のネットを駆け巡りました。それはそれで言葉にしにくい気持ちになるけど、被害にあった者もそうでない者も、そして恐らくは亡くなった者にとっても、怒りの矛先は、彼らのために公には半旗を掲げたけれども「心の中に半旗を掲げ」ない政府に対して、っていう事なんだろうなあ。
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