こなたかなたに歌はあれど。

2年前に12ヶ月遅れで公開した「VOCALOID曲10選」について、2025年の分は10ヶ月遅れに改善したよ! おかしい。仮倉庫の方の履歴を見ると、遅くとも2026年1月にほぼ聴き終わっているはずなのに、どうしてこうなった。



ここ数年の傾向として、どんどん初音さんの高音と早い歌詞が聞き取れなくなっています。寄る年波というやつですね。仕方ないね。けれども、拾い上げた曲を並べてみると、そこまで偏りが出ているわけでもなさそう。あまり意識していないのだけれど、そのうち差が明白になっていくのかしらん。とりわけ聞きやすいなあと思うのは、なんといっても重音テトSV、そして2024年に登場した宮舞モカでしょうか。声の強弱を上手く使った宮舞モカは、カラオケの参考になるので、いっときカバー曲ばかり探して聴いていました。一方で、当初の宮舞モカの印象は、ひとえに「アホの子」。それ、だいたいココアシガレットPのせいではないか。あでも、2024年9月の時点でも、「みゃーまいちゃん、友達とカラオケに行ってこの曲を歌ってドン引きされるタイプとみた」と言われていた。




不思議なもので、何のカバー曲を歌っても宮舞モカっぽくって(そりゃそうだ)、「なるほど、こうやって歌えばいいのか」と謎のお手本感が半端ない。男女を問わず、曲の時代に関わらず。それはある意味で、歌声合成ソフトとしては完成形なのかもしれない。それでいて、オリジナル曲を聴くと、どことなく「なんかちょっと違うような」と感じてしまうので、不思議な状況に陥りやすいのだけれど。







ちなみに、2025年でいちばん良かった宮舞モカ動画はこちら。やっぱ印象変わってないじゃんか。

そして、仮倉庫の方でも少し書いているのだけれど、どうしても気になるのが2025年で最も印象に残ったMIMIの『マジック・メイド』。



いやもう、素敵な曲だし良くできた動画だし、2025年を代表する曲と言っても差し支えないでしょう。でも、歌詞がやっぱり引っかかる。「夜の随に踊るメイド」という歌詞が何回か出てきて、これがどういう情景なのかさっぱり分からない。「随に(まにまに)」は、一般的に「波のまにまに漂う」というように副詞的に使われる言葉で、挙げた例で言えば「波に任せるがままに漂う」というように、「~に任せるように~する」という意味になる。つまり「名詞のまにまに動詞」で、「名詞の意のままに動詞する(される)」というもの。菅公の「神のまにまに」はより極端で、「何をする」すら省略されて、ともすれば神様に全部丸投げだ(歌の意味としては、「御利益の有り無しは、神の御心のままにお任せする」なので、書いていないけど読める)。他にも「~するとともに」という意味もあるみたいだけれど、これは名詞に続かないのでちょっと置いておきますね。

さて、「夜の随に踊るメイド」に立ち返ると、まず「夜は誰かを躍らせる(力がある)」ものではないので、「え?」となる。波とか雲とかなら「まあ、ゆらゆら動くよね」となるのだけれど、夜という単語はどちらかと言えば静の印象が強いので、踊る、いや躍らせるという意味との組み合わせってあまりに悪くないですか。もちろん、過去には『夜のまにまに』という映画もあるくらいなので、表現として市民権を得ているのかもしれないけれど、歌詞の中ではいかにも座りが悪い。一瞬誤用すら考えるけれど、それはあまりに失礼ですね。

あえてこの表現を使ったと考えると、解釈はおそらく二つにあって、一つは「踊ってしまったのは夜のせい」と、原因と結果を逆にするもの。先ほどのように「波や雲は、何かを動かす、自ら動く」から「まにまに」がハマるというのなら、そういうことにすればいい。つまり、「何を言っているんだ。夜だって誰かを躍らせるだろう。えぇっ、君は知らなかったのかい?」という徳島市民的論理に立脚すれば、そりゃ夜の随にメイドは踊る、阿呆も踊る。別に、徳島の人だってバブル期の東京のお姉さんだって、夜な夜なは踊ってないぞ。

もう一つの考えとしては、そんな夏の夜の馬鹿騒ぎのような踊りではなく、月下で誰にも知られないように舞う情景を表す試みではないか。歌詞では続けて「ささやかな晴れ舞台」とあるように、誰と手を取るでもなく、誰に見せるでもなく、ひっそりとした、でもあまりにも特別な夜を描いている。だとすれば、その静かな衝動は誰によってもたらされたものか、突き詰めれば己の内側から、としか言いようがないのだけれど、それではあまりに抒情的だ。暗い過去を表しているかのような夜の闇が、そこから押し出すように音もなく最初のステップを踏ませた、そう考えれば、この舞台は夜によって促されたものと言えよう。

いや、無理がないすか、両方とも。本当に、ここだけが引っ掛かって引っ掛かって仕方ない。蛇足を承知で言うと、「夜に煌めいた星の帳(とばり)」という歌詞もあって、星の帳という表現も想像が難しい。帳と言うからには、明るすぎて他に何も見えないということかしらん。『みだれ髪』じゃないけれど、たぶん言うとすれば、「真っ暗な夜空を背景にして、ささめくように光る星たち」という意味で「夜の帳に煌めいた星」。それだと実にありきたりな表現なので、語順を前後させたのですよ、と言われたらそうなのかもしれないけれど、あまりに「光の壁」という印象がして「ささやかな晴れ舞台」には程遠い気がするの。本当に良い曲なのだけれど……(謎のフォロー)。

ところで、誤解のないように最後に書いておきますが、毎回毎回、こんな風に曲を聴いているわけじゃないからね(めそらし)。

何事も、腹八分目って難しいよね。

12月4日まで、午前十時の映画祭で『アマデウス』を上映するということで、ちょっと足を延ばして観てきました。そんなに大手シネコンが嫌いなのか、おまいは。事前にTwitterでけしかけていたのですが、自分が観ないというのも礼を失するよね。というか、けしかけている時点で無礼千万ではあるのですが。


いやあ、まさにみんなのトラウマが焼き付けられたような映画。おいらのように凡庸な人間にはたいそうな感想など浮かぶはずもなく、例によって

才能のあるなしっていうのは、残酷なもんだなあ。

北村薫『覆面作家のクリスマス』,2008「覆面作家は二人いる」(第11版),p60

という一節を思い出すのでした。「あるなし」というと、あたかも「0か100か」の世界に思えてしまうけれども、この映画は(覆面作家シリーズの話もそう)、90の才能を持つがゆえに100の凄さも分かるし、埋め難い絶望的な10の差を認識してしまう、という悲劇なわけで。才なき者の代表からすると、てんで別世界の話だよね。だからこそあのような作品が成立するんだろうなあ。おいらのような5とか10くらいの(そんなに無いのかも)人間からすると、20とか30くらいの人をみて「すげぇ(語彙力)」と言うのが関の山だもの。

そんな「すげぇ(略)」な場面でたまに使うのが「何を食べたら」という表現なのですが、あまり一般的ではないと最近知りました。軽く遡ってみたところ、『ぼっち・ざ・ろっく!』の話を書いた「君と夜の隅で。」という2年前のエントリで、「何を食べたらそんな言葉の使い方ができるようになるんだろう」みたいな使い方をしていましたね。え。もうそんなに前なの。「何を食べたら」というのは、その才能に対する畏怖と憧れを表しているつもりですが、同時に「食べ物を変えたって追いつけるはずもないだろ、起きろ」という絶望と諦めも含まれていることに、周回遅れで気が付きました。おいらは、自分の文章にそんなことを感じたことが全くないしね。

あ。いや、ちょっと待って。「何か悪いものを食べたときに書いたんじゃないの」という意味でなら、後から再読してビビることは多々ありました。去年も「幾多の物語をその手に重ね。」というエントリで書いた「VOCALOID曲10選」ですが、あの企画で作っているニコニコ動画にあるマイリストのメモが、時折 「何を食べたの?」状態 「何かおかしなものを食べたんじゃないの?」状態になっているんです。2009年にTwitterで見かけて始めたやつが、飛び飛びに垂れ流し続け、マイリストで確認すると、2023年でなんと10回目になっています。暇人か。特に2013年からは10曲に絞る直前の一覧にもコメントを入れているので、地雷原が拡大しています。過去を振り返りつつ、とりわけ「何をおかしなものを食べた後にこれを書いたの?」というやつを自選してみましょう。何だその誰得企画は。

●もらい事故が3件
マイリストの各コメントは、当たり前だけど基本的に曲の内容や感想を書いています。なのだけれども、唐突に第三者がとばっちりを食うという展開がちらほらあります。何でそうなったのか、今のおいらには理解できない。

その1:それはそれとして、『手作りチョコレート事件』の里志は絶対に許さないよ。(2017年選外・『塵箱の中のチョコれぇと』(メオネロP))

読み返していて完全に不意打ちが入った。でも、あの里志はやっぱり許されないよね。
その2:それはそれとして、京浜東北線の北行東十条行きは絶対に許さないよ。(2021年選外・『その電車、中津止まりにつき』(メガナガメ))

その1もそうだけれど、いったい何が「それはそれとして」なのかと小半時ほど問い詰めたい。完全においらの経験談だけになっていて、曲のこととは一切関係ないから質が悪い。でも「もう一駅なんとかしてよ」って思って東十条駅のホームに立ったことがあるのもまた事実。
その3:あと、90年代から言い続けているけれど、自販機の「あったかい」は押さないよね。(2023年選外・『promise』(広瀬香美・綾瀞))

最近の自動販売機は、ボタンのところに橙色の「Hot」か水色の「Cold」が表示されるものもあるから、今となってはあながち間違ってもいないかも。でも、当時の「あったか~い」や「つめた~い」って、コストステッカーの下あたりに貼ってあったんですよ(遠い目)。そして、これも結構前から言っているけれど、

●切腹行為も2件
そもそも「あ、この曲は良いかも」と思うということは、おいらの心が何かしら動かされているのです。それは、正の方向に押し出されることもあれば、負の方向に飛ばされてしまうこともあるわけで、そのどちらもありうると思うのですね。ただ、その刺さり方を粛々と書けばいいのに、なぜか飛ばされた勢いで余計な願望を吐露している事例もありました。消費期限が切れたものを食べてお腹を下した時でも、もう少し歯止めが効きそうなものなのですが。

その1:そのままおいらも騙していただけると幸いです。(2013年10選・『うそつきマイセルフ』(5key-z))

「こんな私を見え透いたうそでだましてよ」という歌詞が印象に残った、という話の流れからの切なる願い。これには流石に笑ってしまった。いったいこの当時のおいらに何があったんだろうか。たぶん何も無くても無意識にキーボードを叩いていたというオチていないオチ。
その2:あと、夏が来るからと慌てても、そこからどうにかなるのは10代までな。(2017年選外・『本気出すのはディナーの後で』(tabahiro))

はいそこ、当時のおいらの年齢を逆算しない。そして恐ろしいことに、この戯言を書いた後の8年間でも、何回か曲がり角を経てきたような気がするんだよね。なにそれこわい。

●ここからランキング
じゃあ、ここからいよいよランキング形式で上位10件を見ていきましょう。というか、まだ10個も在庫があるのかよ。すでにお腹いっぱいですよ。

第10位:夜の空に橋を架けよ、そして明日はその道を駆けよ。(2013年選外・『鼓動の絆』(GLARELY))

改めて感じたのですが、やたらめったら同音の言葉を重ねて使いたがるよね。これまでのブログでもその傾向はあるかも。なんかこう、すごく「狙っている」空気が伝わってくるので、ちょっと控えようかと思いました。きっとそれだけで10件以上ありそうなので、代表的なやつを10位にブチ込んでいます。
第9位:かくて子供は世界を知り、本当の”冒険”が始まるのです。(2011年10選・『ひとりぼっちの日』(挫折P))

古い方から辿っていったときに、最初に引っかかったのがこの一文。「子供の”冒険”」を描いた作品なので、むしろ正しい記述ですらあるのだけれども、文末に「どや顔」が浮かんでくるようで面はゆい。ああ、若気の至りですね。当時もう若くはなかったはずなのだけれど。
第8位:世界は二人のために。そして、この歌も二人のために。(2018年選外・『Ever』(ぐいあの))

この前の文章にある「ここからハリウッド映画ばりの急展開でも見せるのかしらん、とか思ったら、徹底して二人の世界であった」という曲の感想を受けてのもの。前半は、その感想から連想した50年以上前のヒット曲から。ここまでは分かる。ところが、最後にもう一段、外側から見た言葉を重ねる必要があったのか、というと、これは些か筆が走りすぎではなかろうか、という気がしてならない。
第7位:危うい世界に向かって、いや危うい世界は遠くに存在していると思っている我々に向けて問いかけるようで。(2023年10選・『filtration』(mawari))

作品では何も言及されていないものの、否が応でも前年のロシアによるウクライナ侵攻を思い起こさせる曲。もとい、それよりも前から絶え間なく続く諍いだらけの世の中を言っているのかもしれない。そんなことを考えながら、ふらふらっと綴った一文だったと記憶している。
第6位:願いは、叶わないから願い続けるのであって、続けられることゆえに願うことが尊いのです。(2013年10選・『星標』(YUKISON))

なんか日本語がおかしいけれど、もう原文ママで引っ張ってきた。鶏と卵的な話をカッコよく書こうとしてすごく滑っていて、かなり恥ずかしい。恥ずかしいんだけど、「願い」とか「祈り」に関するこういう発想は、今も昔も大好きなんだよね、というのを再確認。
第5位:可能性という言葉は、時に希望に満ちあふれるとともに、残酷でもあるわけですが(2017年選外・『ALEXANDRITE』(cisco))

この辺りから、いよいよ「何か変な物を食べたの?」という度合いが急上昇している気がする。こんな後ろ向きな感想が出てくるはずもない良い曲なので、最高速で空回りしている感じが半端ない。いったいどこからこんな負の波動を受け取ってしまったのかしらん。
第4位:始まることなく終わってしまった恋は、やはり夏に似合うのです。(2018年10選・『君と夏が終わってゆく』(ノーリュ))

何様だおまいは。集英社文庫か角川文庫が夏休みに仕掛ける文庫本フェアにありそうで絶対に無い謳い文句が、いったいどこから湧いてきたのか。こういう恥ずかしい方向に振り切れるやつは、だんだん辛くなってきました。
第3位:もどかしい二人が踊りだすのは、夜闇の中か、打ち付ける雨の中が相場。しかもドラマチックにときたものだ。素晴らしい。(2023年10選・『フロムナイトウォーク』(んぞみ))

かなり昔の映画で「雨降る夜に、街灯の明かりの下で踊る」という場面があって、それ以来、「踊るなら、雨の夜」という固定観念があります。そこに来て、この曲は歌詞に「夜」「踊った」「雨が降る」と、三種の神器が勢ぞろい。さぞかし気分も上々であったことがうかがえます。困ったことにその映画が思い出せないんだよね。パッと出てくるのは『雨に唄えば』なんだけど、もっと前のサイレント映画の頃のはず。チャップリンかなあ、とこれを機にぐぐってみたもののやはり行き当たらない。不思議だ。
第2位:歌よ巡れ。全ての遺された者たちへ。(2011年10選・『さようなら』(ベルP))

びっくりしたのは、この企画の3年目にあたる2011年も、ちゃんとやっていたんですね。よくそんな余裕があったなあというか、それとも、あえてそうすることで前年までと変わらないことを保とうとしたのか。この曲自体は作者の母に向けて書かれたものだけれど、この年の終わりにおいらが拾い上げるにあたって意識したのは、もっと大勢の悲しみに暮れた人たちのこと。あれこれ書かず、短く言い切ったと感心しました。翌2012年の10選を紹介したエントリ「奏でよ、再生への前奏曲を。」の記事題と同じく、よく頑張ったと思います。
第1位:ならば、深い暗闇に浮かぶ妖しい翅もまた、我々は持っているのだろうか。そうに違いない、そうやって生きていくに違いない。(2018年10選・『翅』(buzzG))
第1位:強さを分けてもらっていたわけではなく、か細くも力強く、絞るように叫ぶような歌を作る過程が、背中に伝わってきているだけなのかもしれない。(2023年10選・『エンドロールには載らない君へ』(buzzG))


1位が2つってどういうことだよ。というか、たくさんあった駄文の中で、どう贔屓目に見ても19’s Sound FactoryとbuzzGの時に顕著に暴走している。好きすぎか。というか、古参乙。これはひどいというか、無駄に饒舌というか、飲酒運転が疑われる規模での言葉選びで、かえってちゃんと聴いているのかと不安になっちゃう。単に、年末に追い込んで聴き続けているから妙なテンションというだけなのだけれど。

そんなわけで、誰に頼まれてやっているわけでもない年末の締めくくり行事に向けて、今年もまだ夏前の曲を聴いています。例年と似たような調子だね。間に合うのかな、ダメだったらまた12ヶ月遅れでもいいかなあ。

Recall me, maybe.

先月26日、台湾では大規模な立法委員のリコール投票が行われました。日本では、有権者が直接国会議員を罷免することができないのですが、台湾では「公職人員選挙罷免法」という、そのままというか物々しい名前の法律で制度化されています。ついでに言えば、中華民国憲法の増修条文で総統・副総統の罷免の手続きにも間接的に関わることができるのですね。さて、立法委員の罷免の手続きはどうなっているかというと、署名と投票という手続きは、日本の地方自治体のそれと大きく変わりません。そして、有権者による投票において「罷免に賛成する票が、反対する票を上回り、かつ選挙区の有権者の4分の1以上となった場合」に罷免が成立します。後半の規定は、ちょっと要件として低くないですか、と思ってしまいそうですが、過半数要件のみの日本よりはまともなのかも。

国民党の立法委員24人が対象となった今回の大規模リコール、結果としてはすべて罷免不成立。誰も失職しませんでした。詳しい経緯や投票結果の分析は、今月1日に小笠原教授が東洋経済オンラインで解説しているので、これでだいたい分かった気になれます。というか、おいらもブログで書く内容が90%くらい無くなりました。「有料会員限定記事じゃねえかゴルァ」という方もいると思うので(東洋経済の記事も、最初の数日は無料会員でも読めたやつ)、小笠原教授がコメントしている先月27日の産経新聞の記事を引用してみましょう。

 (略)台湾の清華大栄誉講座教授、小笠原欣幸氏は「昨年1月の立法委員選の結果をリコールで覆すのはおかしいという疑問も、かなりの有権者の心の中にあった。国民党はそこを掘り起こして不同意票を積み上げた」と指摘した。

 与党側の「国民党の立法委員が中国の代理人となり憲政を混乱させている」との主張は、特に若年層への広がりを欠いた。リコール推進派の活動は、14年のヒマワリ学生運動を主導した30代以上が担った。

 だが、ヒマワリ世代より若い有権者は、中国への危機感よりも「若者の期待に応えない民進党」への批判が強い。若者の不満の受け皿となっている第2野党の台湾民衆党は今回、全力で国民党支援に回った。リコールが成功し「ねじれ議会」が解消されれば、自らのキャスチングボートを手放すことになるためだ。(略)

台湾、若年層で対中危機感広がり欠く リコール「失敗」 次期総統選へ野党共闘強まる (産経新聞)

今回のリコールの最終的な狙いは、昨年1月の立法委員選挙と総統選挙で生じた「ねじれ」の解消と断じて差支えは無いでしょう。実際に、立法院では多数派となった藍系が割と好き放題な有様。一方、選ばれた立法委員もまた民意の結果なので、これをひっくり返すとなると相当の理由が必要です。立法院での行状は確かに微妙であるけれども、院のルールに基づいた手続きに則ってやられると、咎める決め手に欠けます。そこで出てくるのは、両記事にも出てくる「中国の代理人」「中国共産党の同調者」というパワーワードです。21世紀にもなって赤狩りみたいな話が出てくるとは思いもしませんでした。こういう動きは、より先鋭的に指弾されてしまうので、「立法院を正常化する」という大義名分が、いつの間にか「親中派議員を排除する」方に向かってしまうわけです。そしてすり替わった論点で成功しなかった場合、かえってカウンターを食らってしまうのが常道。例えばリコール後の30日の聯合報の社論では、「大規模罷免活動は、すべて敗北した。ここで示された新たな民意は、藍系議員は『親中売台』だという非難を認めないというものであり、頼総統の『抗中保台』路線を明確に否定するものだ」と、返す刀で頼政権を批判しています。小笠原教授も「抗中保台」の行き詰まりは指摘しているけれど、さすがに結果を拡大解釈しすぎじゃないかしらん。とか思っていたら、1日の聯合報の社論を見ると「もし、理性的な国民の『罷免への強い反対』を『国民党への支持』と解釈するのであれば、それはあまりに安易であり、情勢判断を誤っている」として、国民党に対しても楔を打っています。この週は、毎日この話を取り上げているので、慌ただしい日々でしたね。

それでは、緑系の自由時報の伝え方は、と考えて、「あの記事はもしかして……」となった記事がいくつかありました。いずれも20日に行われた日本の参議院選挙の結果を伝えた記事ですが、1つ目は20日夜に駐日特派員の林翠儀記者が書いた「自民党の親中派勢力が衰退 二階王国・森山王国とも立て続けに陥落」で、和歌山県選挙区と鹿児島県選挙区の両方で自民党公認候補が敗れたことを報じていました。確かに、どちらも衝撃があったものの、それは二人の問題というよりは自民党の凋落を象徴するような結果であったから。それを「親中派の衰退」と表現したことに、何だか違和感を覚えたのですね。



さらに、翌21日付けの林翠儀記者の記事も、読んでいて疑問符が浮かびました。この記事、出だしの「今回の参議院選挙で自民党は敗北し、抗中友台の保守派重鎮も数多く敗戦を喫した」あたりまでは良いのですが、続けて「保守層の票は新興小政党に流れ、自民党以外で多くの新鋭議員が誕生した。将来、日本政府が対中政策を策定する際、政権を監督する力を働かせるだろうし、新世代の抗中挺台の有望株になることだろう」と書かれると、さすがに「そんなわけないだろ、起きろ」と突っ込まざるを得ません。この記事、確かに候補者や当選者の小ネタはよく拾ってきていると思うのですが、何しろ出てくる面々というのが順に、平野雨龍、石平、百田尚樹、北村晴男、神谷宗幣、さや、梅村みずほという顔ぶれ。これは、「親台派になりそうな新人議員を見つけてきた」というよりは、「中国に対して威勢のいいことを言っていた人たちの紹介」と言った方がいいでしょう。挙句、

こうした日本政界の新鋭たちは、みな表立った場所で話題性のある人物というばかりではなく、数多くの非自民系の候補者で、今回の選挙で中国に対抗する主張を掲げている者たちだ。まるで、台湾の罷免運動のボランティアと同じようではないか。既存の政治の枠組みを離れ、あちこちに優秀な人材が生まれている。彼らは保守派あるいは若者、支持層の無い有権者の支持を得て、さらに彼らの主張が日本社会からも支持を受けたり重要視されるようになったことを体現している。

保守派の票を引き付け 中国に抵抗し台湾を支持する日本の新鋭たちが台頭 (自由時報)

という、おいらも流石に引くような解釈と謎の期待感で〆ていました。



いきなり何を言っているんだ、と思って困惑したのですが、今になって思うと、「日本の有権者も『抗中保台』の考え方で政治家を選んでいる」というお話を見せたかったのかな、と。今の日本の民意は、「親中派の国会議員が推す候補が、有権者に選ばれなかった」「中国に対抗するような物言いの候補者が票を伸ばし、当選する者も出た」「それは台湾の罷免運動と考えが共通している」なのだ、と。仮にそうだとすると、民進党が推し進める罷免運動の考えは、決して民進党の独りよがりなものではなく、東アジアの潮流なのだ。そんな読者への誘導が言外に込められていたのではないか、と邪推してしまうような、なんだか普段とちょっと違うへんてこな記事だったのですね。

いずれにしても、これはおかしかろうと言ったところで、罷免の成立はゼロという数字があるわけで。ありとあらゆる手を尽くしたにも関わらず、残酷な現実が見えてしまったことで、民進党はここからどうやって前に進んでいくんだろうね。小笠原教授は東洋経済オンラインの記事の最後でこう書いています。

台湾政治は以前からわかりにくいが、今後一段とわかりにくくなりそうだ。

台湾で大規模リコールが不成立となった背景とは? 民進党頼清徳政権に打撃で中国がほくそえむ展開に (東洋経済オンライン)

ようし、小笠原教授がわからないのなら(わかりにくいとしか言っていない)、おいらにわかるわけがないよね!