射落された鴉のような姿をも。

かつて、大正昭和の文豪は

おれのようなやくざな人間の死も死にあたいするであろうか。おれの投身はきっと群衆を駆り集めることはできるであろう。今まで平和でいたひとびとの表情をしばらくは掻き乱すことはできるであろう。しかし次の瞬間には、ただ何事もなく、波紋のおさまるように人人は又平気で、先刻に考えていたことを更に考えつなぎ、愉楽するものはその方へ急いでゆくであろう。そこにおれは何の値せられるものがないのだ

幻影の都市 (青空文庫)

と書いていましたが、さて実際のところはどうなんでしょ。

という書き出しでピンと来た人がいたら大したものです。というか、おいらの引き出しの少なさが露呈するだけですね。およそ2年前に「ある女性作家の死まで。」で取り上げた台湾の女性作家のお話です。別に3回忌というわけではないし、おいらもあまり気乗りしない話題ではあったのですが、このところの日本国内の別の事件事故を見ていると、触れておいた方がいいかなと思ったので、あえて書きたいと思います。

前回のエントリでは、亡くなった女性作家の両親が「自殺の遠因は、数年前に塾講師からなされた性的被害だ」と公表したことをかなり否定的に書きました。そういえば、同年後半に世界を席巻した「Me Too」の走りだったと言えるかもしれません。繰り返しになるけれど、性犯罪を肯定するつもりはないです。遺族が断定的に「自殺の理由」を明かすという行為にドン引きしたのです。

さて、じゃあ今回は何にドン引きしたかという話の前に、まずは2年前のエントリ以降に起きたことをざっくり時系列で。あ、今回も基本的に亡くなった作家さんの名前は出しませんし、自殺の遠因になったとされる講師の名前も出しません。あしからず。

主なものを中央社の記事から拾い上げていきましょう。2017年5月6日の中央通訊社の記事によれば、亡くなった女性作家の両親が「娘は生前、他に3人の子が同じような被害を受けていた、と言っていた」と声明を発表。件の本の記述と全く同じ状況ではないものの、一部は似た点があるとのこと。一方、講師も同月9日についに沈黙を破りました。台南地方検察署に対し説明をしたうえで、塾を通じて声明を発表します。同月10日の中央通訊社の記事に声明が載っていますが、その中で、彼は作品の登場人物の名前を引き「私は李国華ではない」と全否定。もっとも、これは出版記念の座談会で彼女が言った「私は、本当に(主人公の)房思琪ではないんです」という回答をトレースしているようにも見えます。そういう余計な小ネタを挟まなきゃいいのに。さらに、彼女のこの言葉を踏まえ、「小説はフィクションの手法を用いており、自伝ではない。私は創作者を尊重し、コメントは控えたい」と半ば挑発的な点も。一方で、「2か月ほど交際していたが、彼女の両親の知るところとなり、別れさせられた」と微妙な告白もあったため、割と火に油な感じもあります。同じ記事には、本件の急先鋒でもある民進党の立法委員の林俊憲がFacebookで「絶対にやめない! 絶対に見逃すわけにはいかない!」とブチ切れたことも書かれています。また、この声明では、加熱する報道に対し、家族や友人、業界の人々を巻き込まないでほしいと訴えていましたが、同じ10日の中央通訊社の記事では、この講師の娘がモデルとして所属する事務所が、ネット上で言われている「この講師が立ち上げた事務所」という点はデマである、と打ち消したうえで、電凸の被害に遭っていることを公表したことが書かれています。日本でもこういうのありましたね。しかし、オンラインもオフラインも動きは止まらず、翌6月20日の中央通訊社の記事では講師の娘が、また同月25日の中央通訊社の記事では、「別の出版社で、高い評価を受けたにもかかわらず、裏切られたことがある」という台湾のネットメディア「報導者」の記事から「その出版社では?」とネット上で糾弾された出版社の社長が、それぞれ自殺未遂に至ったことが報じられています。なお、同月26日の中央通訊社の記事によれば、「報道者」側が「(一方の主張だけを掲載したことについて)公平な報道という点が欠けていた」として謝罪しています。

そして、時期は前後しますが、5月9日には小説の出版社がFacebookで声明を発表。死後に「自殺の原因は講師だ」という両親の声明を出した出版社です。同月9日の中央通訊社の記事にFacebookの全文が転載されていますが、いわく「出版社として両親の声明を出したことについて、社内でも連日にわたって議論と検討を重ねた結果、やはり落ち度があったので、謝罪と釈明をしたい」とのこと。えええええ。

 自4/28以來,對於各方的關心,我們有些話想說。尤其是以出版社身分代轉奕含父母聲明一事,經過社內連日的辯論與檢討,是認確有疏失,需要公開道歉與交待。 首先報告當時的處理經過。4/28的凌晨至上午,我們都與奕含親友持續聯繫著,同時也不…

游擊文化さんの投稿 2017年5月8日月曜日

事態が急展開したのは同年8月22日。台南地検署は「具体的な犯罪の証拠が無かった」として、講師を不起訴とします。8月22日の中央通訊社の記事によれば、女性作家の同級生の証言や講師との電話の記録を見ると、初めて会ったのは16歳以降であったこと、初めて男女関係を持った時には既に教師の生徒という関係になかったこと、カウンセリングの記録を見ても強制されたとは読み取れないことなどを検察官が記者会見で説明しています。当事者の片方がいないとはいえ表面的な感じは否めないし、カウンセリングの記録ってそこまで出していいのかなっていう気もしますが、とにもかくにも終幕を迎えました。

ってなるはずがなくて、例えば同月22日の中央通訊社の記事によれば、台湾の女性団体である婦女新知基金会は、台湾には性別平等教育法があるにも関わらず保守系団体の圧力によって中身が伴っていないという指摘をしたうえで、彼女の作品を高校生の教材にしようと訴えました。また、元検察官で弁護士の楊智綸は同日の中央通訊社の記事で、精神疾患と過去の性的な被害および自殺との因果関係を明確にするのは困難ではあるけれども、としたうえで、過去の性的被害が長期にわたって精神的な悪影響として累積し、自殺に至ったということを、検察が考慮しようとしていない、と指摘しています。さらに同日の中央通訊社の記事によれば、当時の台南市長である頼清徳は、この性的被害から自殺までの流れを事実だとしたうえで、法的な制裁はなくとも良心の呵責からは逃れられないし、因果応報となるだろうとコメントしています。え、いや、うん、おう。

こうした反発もあってか、当初は翌23日に予定されていた講師の記者会見が当日になって中止となり、23日の中央通訊社の記事によれば、代わりに弁護士を経由してコメントが出されています。いわく、自らの道徳的な過ちについて、女性作家の家族、自分の家族、講師だった頃の同僚、社会の人々に改めて謝罪するとともに、メディアに対しては女性作家および自分の家族が平穏を取り戻せるよう求めています。

その要請が功を奏したというわけではないでしょうが、2017年の後半以降はニュースにもほとんど登場しなくなります。暮れに行われた一年の振り返りで、Yahoo奇摩が行った「話題となった人物」のネットアンケートで、女性作家が1位になったことが同年12月1日の中央通訊社の記事に出たことや、Openbook好書奨で中国語作品賞に選ばれたことが同月2日の中央通訊社の記事で報じられたこと、同月21日の中央通訊社の記事にも出ているとおり博客來で年間売上トップだったことあたりで再び名前が出て来ているあたりでしょうか。

事態が大きく動いたのは、女性作家が世を去って間もなく2年になろうかという、今年4月の頭です。はい、こっからが本題でっす。もう疲れたからあまり書かないけれど。

4月5日、中国のSNSである微博で、「あの講師が、名前を変えて福建省福州市の学校で教えている」と、その学校の微博などから引いた画像とともに投稿されました。それにしても、そこまで書いておきながら、「公のもとに裁きたいわけではなく、誰かの地位や名誉を失わせたいわけでもない。ただ、第二の房思琪を防ぎたいだけだ」というのは、ちょっと余計な予防線の張り方ですよね。

ポストした主の予測を超えたかどうかはわかりませんが、末尾にあった拡散希望のお望み通り、瞬く間に微博で拡散し、中華圏のニュースサイトに飛び火します。同じ5日のNOWnewsでは、学校側の微博を引用し、教師の交流に伴うオンライン上の講義であり、また正式な契約をした講師ではないとの釈明を載せています。さらに同月6日の中央通訊社の記事では、2年前の顛末まで含めて経過を列挙。何もそこまで蒸し返さなくても。しかも、同月8日の中央通訊社の記事によれば、福州市の教育局による調査チームの要求を受け、オンライン講義はあえなく閉鎖されたとか。ふええ。

おいらは、決して講師の男性を擁護する気はないのです。2年前の記事でも、

彼女のような境遇の者が二度と出ないように、また境遇と結びつくかはさておき彼女のように自ら命を絶つような者が出ないように、何よりここまで大きな話になってしまった彼女自身に平穏が訪れるように、そう願わずにはいられません。

ある女性作家の死まで。 (やうちさん、ニュースだよ!)

などと、この微博と似たようなことも書いていますしね。でも、この微博の「第二の房思琪を防ぎたいだけ」というのは、「燃料は投下した、さあ炎上させたまえ」と思いをごまかすためのものにしか見えません。上に書いた検察の不起訴の理由も微妙だなあとは思っていますが、だからといって、起訴に至らなかった過去の事実に絡めて、その人物の現状を晒すという行為に大きな悪意を覚えます。ましてや、その悪意を覆うように、かかる行為に正義があるがごとく振舞うことにドン引きです。なんだかなあ。

翻って日本国内を見ても、春先から似たような出来事がありました。世の動きが自分たちの考える正義とやらと異なっていたとしても、その意味を考えることなく騒ぐことが、ましてや個人をつつくことが正しいと言えるのかしらん。社会的制裁と言えば聞こえはいいけれど、罪は事実に依って認められるべきだし、罪は法に依って罰せられるべきなのです。よく「既に社会的制裁を受けている」として罪が減らされることがありますが、おいらは、あれって社会的制裁を助長しているような気がしてなりません。周りの熱に乗じて拳を振り下ろした側は、やがて忘れていくのが常ですが、今回の微博のように2年たって再び熱を帯びていったのを見ると、恐ろしさを禁じ得ません。水底に棄てられ沈められた諸々のものが浮かび上がるときって、往々にして「詳しいことは忘れたけれど、また叩かれても仕方ない」ってなっちゃうんだもの。