3回続けて映画のお話です。初っ端から脱線しちゃいますが、前回の「感想から限りなく遠い何か。」で、川端康成を引いていると書いたところ、ばっちり意図を汲んでくれた暇な人がいました。ありがとうございます。
さあ、閑話休題。先月10日、今年のアカデミー賞の授賞式が行われました。今さら言うまでもない話ですが、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』が、最多4部門を制し、特に英語以外の作品として初めて作品賞を受賞するなど、歴史的な結果に終わっています。実は、おいらはこの作品もこの監督さんも全く知らないので、スピーチや記者会見の記事を見ても初めての情報ばかりでした。あれ? と思ったのは、授賞式後の記者会見で、影響を受けたアジアの映画監督について、主要紙がバラバラに取り上げたところです。
今村昌平氏や黒沢清氏といった日本の映画監督にも影響を受けたという。
アカデミー作品賞に韓国「パラサイト」 英語以外で初 (日本経済新聞)
ポン・ジュノ監督は記者会見で、影響を受けたアジアの映画監督を聞かれ、韓国のキム・ギヨン監督のほか、今村昌平、黒沢清両監督の名前を挙げ、日本の映画人への敬意も示した。
日本の今村昌平、黒沢清両監督にも強い影響を受けたという。
ポン・ジュノさん=米アカデミー賞で4冠の映画監督 (毎日新聞)
影響を受けたアジアの映画人を問われると、真っ先に「下女」で知られる韓国の鬼才キム・ギヨン監督の名を挙げました。「日本の今村昌平監督や黒沢清監督、台湾の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督やエドワード・ヤン監督からも大きな影響を受けた。アジアには他にもまだまだたくさんの素晴らしい監督がいます」
スペースの都合もあるだろうけれど、韓日のほか台湾から侯孝賢と楊徳昌の名前が挙がったというのは興味深いところです。事実、台湾での報道を見ると、10日の蘋果日報をはじめ、11日の中央通訊社や翌12日の自由時報と聯合報も5人の名前が出たことを余すことなく伝えています。日本の各紙も、わざわざ日本人だけ抜き出さなくてよかったし、産経なんて「日本の映画人への敬意も示した」って入れ込む必要ないのにね。むしろ、削らずに全員を伝えることが、ポン・ジュノを含めた6人に対する敬意というものなんじゃないかな。なんて思ったり。
それとは別にTwitterでも流れてきて驚いたのは、英国映画協会(BFI)が発行する『サイト・アンド・サウンド』誌に2012年に掲載されたポン・ジュノ監督の「オールタイムベスト10」。こういうのって難しいですよね。おいらなんかと違って観ている作品の量も桁違いだから、訊く時期やテーマによって全く顔ぶれが違ったりするのもよくある話。なので、あくまで、2012年時点での10作品ということで見てみましょ。原文はこちら。順番は英題のアルファベット順っぽい。
- 『悲情城市』(1989) 侯孝賢
- 『CURE』(1998) 黒沢清
- 『ファーゴ』(1995) ジョエル・コーエン,イーサン・コーエン
- 『下女』(1960) 金綺泳
- 『サイコ』(1960) アルフレッド・ヒッチコック
- 『レイジング・ブル』(1980) マーティン・スコセッシ
- 『黒い罠』(1958) オーソン・ウェルズ
- 『復讐するは我にあり』(1979) 今村昌平
- 『恐怖の報酬』(1953) アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
- 『ゾディアック』(2007) デヴィッド・フィンチャー
って、これ、作中で(映っていない人を含めて)何人死んでるんだよ。それはさておき、アカデミー賞授賞式後の記者会見で列挙された5人のうち、楊徳昌を除いた4人(太字)の作品が並んでいるのには驚きました。8年前だっていうのにね。上にも書いたとおり、こういうオールタイムベストってちょこちょこ変わったりするんだけど、コメントにもあるとおり、彼らの作品が今日までポン・ジュノを支え続けてきたのでしょう。
その侯孝賢・監督の『悲情城市』については、折しも今年1月、中央通訊社が公開30周年を記念する特集を組みました。30年前と今とで変わったことは、そして通じるものは、などなど、公開当時に観ていたわけでもないおいらにとっても、興味深い記事でした。
『悲情城市』は、1945年の戦争終結から1949年の中華民国政府の遷台まで、基隆の林家を通して、この不安定な時期の政治や社会を描いた作品ですが、公開された1989年という時期もまた、非常に微妙なものでした。社会的に見れば、台湾省戒厳令が1987年に解除されたばかりであり、光復直後の時代を描くこと自体が挑戦的ともいえた頃です。さらに、1980年代前半に勃興した、いわゆる「台湾ニューシネマ」の流れにおいても、低迷しかけていた国産作品に世界的な評価をもたらしたとして、一つの頂点となったわけです。
そういう通り一遍の話はWikipediaで見て満足すればいいとして、一つ目の「1989-『悲情城市』と台湾初の金獅子賞」は、当時の状況を細やかに書き連ねています。記事によれば、1979年の台米断交から10年が経過し、「アジアの孤児」とも言うべき地位にいた台湾は、ヴェネツィアでも中国からの干渉を受けたとのこと。会場の外には、各ノミネート作品の製作国の国旗が掲げられていたのですが、そこには中華民国の青天白日満地紅旗が無かったそうです。台湾と『悲情城市』の名前は、そんな状態から一夜にして全世界の主要メディアを席巻しました。授賞式明けの9月16日、台湾の主要紙の一面には、侯孝賢が満面の笑みで受賞する写真が並び、これは映画関係のニュースが初めて一面を飾った例になりました。
興行面から見てみましょ。国家電影資料館の「1990年電影年鑑」によれば、台北での興行成績は約6,600万元。台湾全体での記録は残っていないそうですが、以前「また「はじめまして」のご挨拶。」でも書いたとおり、かつては「台北の収入×2=台湾全体の収入」だったので、「台湾で製作された映画の新記録だった可能性がある」と記事では触れています。ちなみに、中文版Wikipediaを見ると、2000年以降の記録しか載っていないため正確な順位は分からないものの、単純に2倍して約1億3,200万元とすると、23番目くらいになります。あれ、微妙。ただし、今とは映画の料金も違うため、当時の平均的な価格である約110元で割ると、台北で約60万人が観たことになります。これを当時の台北市の人口約270万人で割ると、10人に2人は観ていた計算になる――って記事では書いているけど、ちょっと乱暴すぎやしませんか。
出演者にまつわる話で最初に出てくるのは、やはり梁朝偉。閩南語を話せないため文清役になった、というのは割と知られている話だけれど、8歳の時に聴力を失い、実際に二二八事件にも遭遇した芸術家、陳庭詩が下敷きになっていたというのは初耳。
これ以降の記事は、映画関係者のインタビューです。映画評論家で『藍色夏恋』のプロデューサーなども務めた焦雄屏が、2つ目の記事のメイン。全然関係ないけれど、彼女のWikipediaの項目はちょっとひどいので、手直ししないとじゃん。
焦雄屏は、侯孝賢というよりも、台湾ニューシネマ全般の話から入ります。「台湾ニューシネマは新しい発想だった。どんな新発想も、一種の革命だ」と言う彼女は、一度は公の力で立ち上がりかけた台湾ニューシネマが、やがてメディア、産業そして政治と相容れなくなったことについて、「当時の台湾の環境は、国際的な文化から隔絶され続けた。その結果、旧体制とニューシネマとの間には断裂と対立が生まれた」と話します。なるほど。ヴェネツィアにかかってきた国際電話のくだりにも、受賞によってそれが霧散したあたりの緊張感も当時ならではです。
一方、1977年から始まった香港国際映画祭で、監督やプロデューサーを務めた陳國富が欧州の映画関係者に台湾映画を売り込んでいた、と回顧する脚本家の小野の話も面白いですね。事実、ナント三大陸映画祭では、1984年の『風櫃の少年』、翌1985年の『冬冬の夏休み』と、侯孝賢作品が2年連続でグランプリを獲得しています。これを契機に侯孝賢の映画が欧州で評価されていきました。なるほど。急に評価されたわけではないわけだ。一方、他国の情報を得にくかった80年代において、ニューシネマに反対する業界やメディアからは「地方の映画祭」と言われてしまっていたようです。また、外国人に理解してもらうための売り込み方、見せ方の逸話も興味深いですね。年代電影公司の経営者であった邱復生が、欧米の映画評論家を招き、『悲情城市』の撮影現場や侯孝賢を取材させたというのは、なんとも先進的かつ思い切ったもの。また、話の重要なポイントであるにも関わらず大事な場面は描かれない二二八事件が、そもそも欧米人に(というか日本人にも)あまり知られていないことや、登場人物が多くて欧米人が区別できなくなることを考え、相関図や歴史的背景、監督のコメントなどが書かれたパンフレットを作ったというのも、当時ならではの苦労です。
当時、中央電影公司(中影)にいた小野を中心とした話が3つ目の記事です。台湾ニューシネマというと、おいらは、どうしても侯孝賢や楊徳昌を中心に捉えてしまうのですが、それは不充分であり、むしろ監督個人に焦点が当たってしまったという台湾ニューシネマの負の側面を表しているように思えてきます。小野が辞表を持って行った際、ちょうど楊徳昌の『恐怖分子』がドイツでテレビ化されることが決まったところに出くわしたという話も、その後の不遇も、なんというか、どんな世界にも光と影があるのだなあ、などと安易な感想を持ってしまうのでした。記事では90年代の低迷から「後海角時代」にも言及しており、単に30年前を振り返るのではなく、この30年間の歩みをたどる丁寧な記事と言えます。では、30年前に『悲情城市』が掘り起こした、社会の下に埋もれた悲しみは、今日ではどうなのか? 小野は台湾が統治されてきた歴史を踏まえ、焦雄屏は世界の大国間の力関係の観点から、別経路ではあるものの、「悲情」を脱していないという結論で一致します。
台湾映画界の30年間の歩みをたどってきたところで、4つ目の記事ではいよいよ新進気鋭の制作者たちが登場します。小野の息子で、今年1月に『喜從天降(原題)』が封切りされたばかりの李中と、昨年公開された『菠蘿蜜(原題)』で第56回金馬奨の最優秀新人監督賞にノミネートされたマレーシア出身の廖克発という2人。
物心ついたころには「作家」という印象しかなく、父親と台湾ニューシネマとの関係をずいぶん後になってから知ったという李中。ハリウッドと香港映画を観て育ち、アクションコメディ作品を撮りたいと思っていたそうです。大学生の時に初めて観た『悲情城市』では、梁朝偉が汽車の中で問い詰められた場面が印象に残ったとか。ふむ。制作者の視点から、時代の捉え方について語るさまは、なるほどと思わせます。台湾ニューシネマは、マレーシアの華人社会になお息づいているのではないか、という李中の指摘から、廖克発に持っていく流れは、流石にちょっと計算しすぎにも見えますが、廖克発が台湾芸術大学で学んだ技術を取り入れていることや、過去の作品でマレーシアのいわゆる「電検制度」に挑む描写など、台湾ニューシネマの影響もうかがえます。また、台北に旅行した際にお土産で買って帰ったのが『悲情城市』との出会いだったという逸話や、マレーシアの自分の家族との対比の話も面白いですね。
中央社は2人それぞれに、インタビューの最後で同じ問いを投げかけています。台湾ニューシネマの制作者たちの革命的な友情は、今日の映画人にも存在するか否か。「もうなくなった。インドネシアや東南アジアの若い映画制作者の方が感じられるかもしれない。けれども、地域によって分けるべきではない」と言うのは廖克発。一方、李中は、「今は、かつてよりも多くの人が映画制作にかかわっている。小さなグループはより多く、より分散し、互いを知らないこともあるかもしれない。しかし、グループや彼らの好みはより多元化している。資源がより分散し、みんなより苦労しているだろうが、飛び交う火花もまたより激しくなっている」と〆ています。
最後の5つ目の記事では、スクリーンを飛び出して、社会情勢を対比します。『悲情城市』の公開された1989年は、台湾での戒厳解除からほどなく、というのは上にも書きましたが、同時に、大陸では六四天安門事件が発生した年でもありました。『悲情城市』の世界各国への宣伝を行った香港の映画評論家、舒琪は、カメラを持って30年前の北京で目撃者となり、NHKスペシャル(後にシーンを追加して映画化)の『SUNLESS DAYS ~ある香港映画人の天安門~(中文題:沒有太陽的日子)』を撮影しました。そして、30年後の為政者と市民の衝突は、彼が住む香港で発生しました。「結局のところ、二二八事件は私にとってはるか昔の出来事だった。映画のおかげで一連の歴史を知ることができたが、それでも実感が湧かなかった。六四天安門事件よりも前は、私も多くの香港人も同じように、政治に対して無関心だった。六四天安門事件で、政治に対する意識がようやく急成長を遂げたのです」と話す舒琪。3つの歴史的な衝突を目にした舒琪は、「悲しみとは何か」に対し、「怒り、無力感、そして意思を持つという三段階があると考える」と言います。「残忍な出来事、迫害、あるいは誰かが死ぬところ見て、怒りを覚えるだろう。しかし相手は国家や政府など、とてつもなく大きな機構であり巨人であるため、無力さを痛感することになる。一方で、それゆえに抵抗する必要に迫られ、それは集団の力に発展する。その集団の中で意思を持っていくのだ」と。各地の人々が連絡を取れなかった二二八事件の頃から技術も進歩し、六四天安門事件ではFAXや衛星通信が使われ、今はいくつもの媒体やネットを通じて状況が伝えられるなど、変化も当然あります。一方で、1947年、1989年、そして2019年も、情景や悲しみの三段階は共通だし、「背後に独裁政権があることと、その本質は変わらない」と舒琪は語ります。
そして、やはりというか何というか、取り上げられたのは、台湾のロックバンド「滅火器(Fire EX.)」。彼らが香港の作詞家である林夕と組んで作った『雙城記』でっす。もともと高雄空襲を題材にした『一九四五』などを発表するなど、メッセージ性の強い作品を作っていた彼らでしたが、今回のもまたド直球に香港の反送中運動を描きました。どちらの曲も昨年末に発売されたアルバム『無名英雄 Stand Up Like A Taiwanese』に収録されているので、手に入れたい人は頑張れ。面白いのは、この『雙城記』自体、もともと反送中運動を応援するために作られたものではない、ということでしょうか。アルバム『無名英雄 Stand Up Like A Taiwanese』が、台湾の過去100年の節目節目を描くコンセプトで作り始められたのは、この問題が発生する前のこと。この曲が出来上がったのも、運動が盛り上がる前の2019年3月だとか。
Facebookにも書いてあるとおり、曲の後半(3分30秒くらいから)のメロディーが、『悲情城市』のテーマソングをなぞっています。曲名の『雙城記』は、日本語に直すと『二都物語』。時間と場所を超えた台湾と香港の姿を重ねる気持ちがFacebookの投稿にも表れています。もともと、2000年頃に『悲情城市』を観たことで二二八事件を知ったというボーカルの楊大正は、1984年生まれ。『悲情城市』が公開当時に与えた衝撃を感じるには経験も感受性も足りていなかったというわけ。しかも『悲情城市』に出会ったきっかけは、決して映画を観たかったというわけではなく、林昶佐(フレディ・リム)のバンドが2月28日に大規模なコンサートを開くのはなぜだろう、という疑問から二二八事件や『悲情城市』にたどり着いたそうで。ひょええ。統治者の入れ替わりという激動の時代を描いた『悲情城市』は、「台湾人とはいったい何なのか」という問いを楊大正に投げかけました。「70年前の二二八事件は、2019年の香港と本質的には一緒だ。独裁者の抑圧に、無力なものたちが抵抗したのだ」と語る彼は、一方で、今日の香港、つまり70年前の台湾と2020年の台湾との違いとして、民主的な選挙の実施を挙げています。あっ、そうか、これ1月の記事だった。
過去との現在をつなぐ作品が、30年たってみると、それだけではなく未来をも結びつける作品になっていたというのは、非常に興味深いですね。そういえば、おいらも流石に『悲情城市』を映画館で観たことは無いなあ……と思っていたら、ちょうど2月11日から16日にかけて、鎌倉市川喜多映画記念館で上映されるとのこと。新型肺炎の影響も気になっていたけれど、「ええい、行っちゃえ」と最終日の日曜日に鎌倉に行ってきました。
本当は、川喜多映画記念館で、侯孝賢の『悲情城市』を観るつもりだったんだけど……。 pic.twitter.com/vxoXF9FUt7
— やうち。 (@Yauchi) February 16, 2020
ですよねー。と、無事にタイトルに戻ったところで今回はおしまい。1ヶ月半くらいちょこちょこ書いててこのオチかよ。