何事も、腹八分目って難しいよね。

12月4日まで、午前十時の映画祭で『アマデウス』を上映するということで、ちょっと足を延ばして観てきました。そんなに大手シネコンが嫌いなのか、おまいは。事前にTwitterでけしかけていたのですが、自分が観ないというのも礼を失するよね。というか、けしかけている時点で無礼千万ではあるのですが。


いやあ、まさにみんなのトラウマが焼き付けられたような映画。おいらのように凡庸な人間にはたいそうな感想など浮かぶはずもなく、例によって

才能のあるなしっていうのは、残酷なもんだなあ。

北村薫『覆面作家のクリスマス』,2008「覆面作家は二人いる」(第11版),p60

という一節を思い出すのでした。「あるなし」というと、あたかも「0か100か」の世界に思えてしまうけれども、この映画は(覆面作家シリーズの話もそう)、90の才能を持つがゆえに100の凄さも分かるし、埋め難い絶望的な10の差を認識してしまう、という悲劇なわけで。才なき者の代表からすると、てんで別世界の話だよね。だからこそあのような作品が成立するんだろうなあ。おいらのような5とか10くらいの(そんなに無いのかも)人間からすると、20とか30くらいの人をみて「すげぇ(語彙力)」と言うのが関の山だもの。

そんな「すげぇ(略)」な場面でたまに使うのが「何を食べたら」という表現なのですが、あまり一般的ではないと最近知りました。軽く遡ってみたところ、『ぼっち・ざ・ろっく!』の話を書いた「君と夜の隅で。」という2年前のエントリで、「何を食べたらそんな言葉の使い方ができるようになるんだろう」みたいな使い方をしていましたね。え。もうそんなに前なの。「何を食べたら」というのは、その才能に対する畏怖と憧れを表しているつもりですが、同時に「食べ物を変えたって追いつけるはずもないだろ、起きろ」という絶望と諦めも含まれていることに、周回遅れで気が付きました。おいらは、自分の文章にそんなことを感じたことが全くないしね。

あ。いや、ちょっと待って。「何か悪いものを食べたときに書いたんじゃないの」という意味でなら、後から再読してビビることは多々ありました。去年も「幾多の物語をその手に重ね。」というエントリで書いた「VOCALOID曲10選」ですが、あの企画で作っているニコニコ動画にあるマイリストのメモが、時折 「何を食べたの?」状態 「何かおかしなものを食べたんじゃないの?」状態になっているんです。2009年にTwitterで見かけて始めたやつが、飛び飛びに垂れ流し続け、マイリストで確認すると、2023年でなんと10回目になっています。暇人か。特に2013年からは10曲に絞る直前の一覧にもコメントを入れているので、地雷原が拡大しています。過去を振り返りつつ、とりわけ「何をおかしなものを食べた後にこれを書いたの?」というやつを自選してみましょう。何だその誰得企画は。

●もらい事故が3件
マイリストの各コメントは、当たり前だけど基本的に曲の内容や感想を書いています。なのだけれども、唐突に第三者がとばっちりを食うという展開がちらほらあります。何でそうなったのか、今のおいらには理解できない。

その1:それはそれとして、『手作りチョコレート事件』の里志は絶対に許さないよ。(2017年選外・『塵箱の中のチョコれぇと』(メオネロP))

読み返していて完全に不意打ちが入った。でも、あの里志はやっぱり許されないよね。
その2:それはそれとして、京浜東北線の北行東十条行きは絶対に許さないよ。(2021年選外・『その電車、中津止まりにつき』(メガナガメ))

その1もそうだけれど、いったい何が「それはそれとして」なのかと小半時ほど問い詰めたい。完全においらの経験談だけになっていて、曲のこととは一切関係ないから質が悪い。でも「もう一駅なんとかしてよ」って思って東十条駅のホームに立ったことがあるのもまた事実。
その3:あと、90年代から言い続けているけれど、自販機の「あったかい」は押さないよね。(2023年選外・『promise』(広瀬香美・綾瀞))

最近の自動販売機は、ボタンのところに橙色の「Hot」か水色の「Cold」が表示されるものもあるから、今となってはあながち間違ってもいないかも。でも、当時の「あったか~い」や「つめた~い」って、コストステッカーの下あたりに貼ってあったんですよ(遠い目)。そして、これも結構前から言っているけれど、

●切腹行為も2件
そもそも「あ、この曲は良いかも」と思うということは、おいらの心が何かしら動かされているのです。それは、正の方向に押し出されることもあれば、負の方向に飛ばされてしまうこともあるわけで、そのどちらもありうると思うのですね。ただ、その刺さり方を粛々と書けばいいのに、なぜか飛ばされた勢いで余計な願望を吐露している事例もありました。消費期限が切れたものを食べてお腹を下した時でも、もう少し歯止めが効きそうなものなのですが。

その1:そのままおいらも騙していただけると幸いです。(2013年10選・『うそつきマイセルフ』(5key-z))

「こんな私を見え透いたうそでだましてよ」という歌詞が印象に残った、という話の流れからの切なる願い。これには流石に笑ってしまった。いったいこの当時のおいらに何があったんだろうか。たぶん何も無くても無意識にキーボードを叩いていたというオチていないオチ。
その2:あと、夏が来るからと慌てても、そこからどうにかなるのは10代までな。(2017年選外・『本気出すのはディナーの後で』(tabahiro))

はいそこ、当時のおいらの年齢を逆算しない。そして恐ろしいことに、この戯言を書いた後の8年間でも、何回か曲がり角を経てきたような気がするんだよね。なにそれこわい。

●ここからランキング
じゃあ、ここからいよいよランキング形式で上位10件を見ていきましょう。というか、まだ10個も在庫があるのかよ。すでにお腹いっぱいですよ。

第10位:夜の空に橋を架けよ、そして明日はその道を駆けよ。(2013年選外・『鼓動の絆』(GLARELY))

改めて感じたのですが、やたらめったら同音の言葉を重ねて使いたがるよね。これまでのブログでもその傾向はあるかも。なんかこう、すごく「狙っている」空気が伝わってくるので、ちょっと控えようかと思いました。きっとそれだけで10件以上ありそうなので、代表的なやつを10位にブチ込んでいます。
第9位:かくて子供は世界を知り、本当の”冒険”が始まるのです。(2011年10選・『ひとりぼっちの日』(挫折P))

古い方から辿っていったときに、最初に引っかかったのがこの一文。「子供の”冒険”」を描いた作品なので、むしろ正しい記述ですらあるのだけれども、文末に「どや顔」が浮かんでくるようで面はゆい。ああ、若気の至りですね。当時もう若くはなかったはずなのだけれど。
第8位:世界は二人のために。そして、この歌も二人のために。(2018年選外・『Ever』(ぐいあの))

この前の文章にある「ここからハリウッド映画ばりの急展開でも見せるのかしらん、とか思ったら、徹底して二人の世界であった」という曲の感想を受けてのもの。前半は、その感想から連想した50年以上前のヒット曲から。ここまでは分かる。ところが、最後にもう一段、外側から見た言葉を重ねる必要があったのか、というと、これは些か筆が走りすぎではなかろうか、という気がしてならない。
第7位:危うい世界に向かって、いや危うい世界は遠くに存在していると思っている我々に向けて問いかけるようで。(2023年10選・『filtration』(mawari))

作品では何も言及されていないものの、否が応でも前年のロシアによるウクライナ侵攻を思い起こさせる曲。もとい、それよりも前から絶え間なく続く諍いだらけの世の中を言っているのかもしれない。そんなことを考えながら、ふらふらっと綴った一文だったと記憶している。
第6位:願いは、叶わないから願い続けるのであって、続けられることゆえに願うことが尊いのです。(2013年10選・『星標』(YUKISON))

なんか日本語がおかしいけれど、もう原文ママで引っ張ってきた。鶏と卵的な話をカッコよく書こうとしてすごく滑っていて、かなり恥ずかしい。恥ずかしいんだけど、「願い」とか「祈り」に関するこういう発想は、今も昔も大好きなんだよね、というのを再確認。
第5位:可能性という言葉は、時に希望に満ちあふれるとともに、残酷でもあるわけですが(2017年選外・『ALEXANDRITE』(cisco))

この辺りから、いよいよ「何か変な物を食べたの?」という度合いが急上昇している気がする。こんな後ろ向きな感想が出てくるはずもない良い曲なので、最高速で空回りしている感じが半端ない。いったいどこからこんな負の波動を受け取ってしまったのかしらん。
第4位:始まることなく終わってしまった恋は、やはり夏に似合うのです。(2018年10選・『君と夏が終わってゆく』(ノーリュ))

何様だおまいは。集英社文庫か角川文庫が夏休みに仕掛ける文庫本フェアにありそうで絶対に無い謳い文句が、いったいどこから湧いてきたのか。こういう恥ずかしい方向に振り切れるやつは、だんだん辛くなってきました。
第3位:もどかしい二人が踊りだすのは、夜闇の中か、打ち付ける雨の中が相場。しかもドラマチックにときたものだ。素晴らしい。(2023年10選・『フロムナイトウォーク』(んぞみ))

かなり昔の映画で「雨降る夜に、街灯の明かりの下で踊る」という場面があって、それ以来、「踊るなら、雨の夜」という固定観念があります。そこに来て、この曲は歌詞に「夜」「踊った」「雨が降る」と、三種の神器が勢ぞろい。さぞかし気分も上々であったことがうかがえます。困ったことにその映画が思い出せないんだよね。パッと出てくるのは『雨に唄えば』なんだけど、もっと前のサイレント映画の頃のはず。チャップリンかなあ、とこれを機にぐぐってみたもののやはり行き当たらない。不思議だ。
第2位:歌よ巡れ。全ての遺された者たちへ。(2011年10選・『さようなら』(ベルP))

びっくりしたのは、この企画の3年目にあたる2011年も、ちゃんとやっていたんですね。よくそんな余裕があったなあというか、それとも、あえてそうすることで前年までと変わらないことを保とうとしたのか。この曲自体は作者の母に向けて書かれたものだけれど、この年の終わりにおいらが拾い上げるにあたって意識したのは、もっと大勢の悲しみに暮れた人たちのこと。あれこれ書かず、短く言い切ったと感心しました。翌2012年の10選を紹介したエントリ「奏でよ、再生への前奏曲を。」の記事題と同じく、よく頑張ったと思います。
第1位:ならば、深い暗闇に浮かぶ妖しい翅もまた、我々は持っているのだろうか。そうに違いない、そうやって生きていくに違いない。(2018年10選・『翅』(buzzG))
第1位:強さを分けてもらっていたわけではなく、か細くも力強く、絞るように叫ぶような歌を作る過程が、背中に伝わってきているだけなのかもしれない。(2023年10選・『エンドロールには載らない君へ』(buzzG))


1位が2つってどういうことだよ。というか、たくさんあった駄文の中で、どう贔屓目に見ても19’s Sound FactorybuzzGの時に顕著に暴走している。好きすぎか。というか、古参乙。これはひどいというか、無駄に饒舌というか、飲酒運転が疑われる規模での言葉選びで、かえってちゃんと聴いているのかと不安になっちゃう。単に、年末に追い込んで聴き続けているから妙なテンションというだけなのだけれど。

そんなわけで、誰に頼まれてやっているわけでもない年末の締めくくり行事に向けて、今年もまだ夏前の曲を聴いています。例年と似たような調子だね。間に合うのかな、ダメだったらまた12ヶ月遅れでもいいかなあ。