前々回の「その5」、前回の「その6」と、なぜか3ヶ月おきの更新です。備忘というよりも、月末のフラグになっているような気がします。
さて、「その1」のときに挙げた6ヶ所の「姫川」と、おまけで寄り道した「姫川原」は前回までに訪問し終えました。6ヶ所を拾ったのは、Wikipediaの「姫川(曖昧さ回避)」、goo郵便番号検索および角川日本地名大辞典の別巻2で調べたものですが、その後、「地理院地図」で念のため検索したところ、なぜか福島県南会津郡下郷町が引っかかりました。
小字だったら目を瞑ろうかとも思ったのですが、会津バスの路線図を見ると、「姫川橋」というバス停もあるみたい。これは仕方がない。行ってみるしかないでしょう。それにしても、この姫川橋が架かっているのは戸石川という川で、姫川という名前ではありません。これはちょっと気になるので『下郷町史』を調べると、「高倉宮以仁王にまつわる伝説」として、宇治川の戦いで敗れた以仁王が上州沼田から南会津を回って越後に落ち延びた話が出てきました。またか。義経伝説が由来の乙部町の姫川に続いて、またしても『鎌倉殿の13人』の周辺の逃亡劇が由来ですか。ともあれ下郷町史に載っている伝説によれば、この以仁王を追いかけて、正室の紅梅御前と側室の桜木姫が白河から大内宿までやってきたそうです。ところが、一足違いで以仁王は越後に向かってしまっており、二人は失意のあまり、相次いで当地で亡くなってしまう。二人が亡くなったことはすぐさま越後に入っていた以仁王に伝えられ、以仁王は二人を弔うよう仰せられたとか。このうち紅梅御前については、戸赤に祠を作ったとのこと。
いま、戸赤の渓流をへだてた岸辺に小祠が祀られているのも哀れである。
ここの渓川を姫川というのは、悲歎の極に逝(な)くなられた橘姫(紅梅御前)をしのんで呼び、また、御前の墓と村との間には橋がない。幾度橋を架けても一夜の雨で流失してしまう。人目をさけての憂き旅に、生死の始末の情けなさを人に見られるのが辛いという。病魔に苦しみ、子どもも産めずにあの世に旅発って行った、誰にも会いたくない姫の悲痛な心を汲んで、流れてしまうのだと伝えられている。
下郷町『下郷町史』第5巻 民族編,1982,p649
日本語がなんだか微妙だけど、橋がない理由も含めて神秘的な伝説です。せっかくなので、その祠の近くまで行ってみることにしましょう。
なお、今回の訪問にあたっては、2020年7月に行ったときのものをベースにしていますが、2021年6月にスマホを修理した際にガシャ結果のスクショを退避し損ねるという大失態を犯したため、2022年4月に再訪してガシャを回しています。ガシャの結果は2022年の方が若干良かったのですが、本来の目的からすると大差はありません。