最近、とんと本屋に行かなくなっているので反省しなければなりません。今さらながら米澤穂信の『満願』の文庫本を買おうとしたら、その横には『リカーシブル』も。時系列的には当たり前ではあるものの、珍しく単行本で手に入れていただけに感慨深いものがありました。こっちは買わない代わりに(おい)巻末の解説を立ち読みしたところ(おいおい)、結末を迎えてのハルカの気持ちの変化をきれいに表現していたので唸りました。プロは違いますね。
米澤穂信『リカーシブル』が、いよいよ文庫刊行! 主人公は、解説にて瀧井朝世さんが「米澤作品の愛すべきヒロインが、また一人誕生した」と太鼓判を押す、越野ハルカ。十代の切なさと成長を描く、心突き刺す青春ミステリです!(担当T) pic.twitter.com/pGg5ycObJD
— 新潮文庫 (@shinchobunko) June 25, 2015
あ。ヒロインはハルカかもしれませんが、おいらの嫁は在原リンカです。
ここまで書けばお察しかと思います。今月公開となった米澤穂信原作の映画『氷菓』のお話です。小説にしろ漫画にしろ、実写映画化というものは手放しで喜ばれたわけではありません。映画となれば尺の制約、役者の力量、大人の事情、様々なプラスマイナスがお話に入り込みます。原作を知るものからすれば、話を壊すような出来栄えになっていないかどうか、というのは大なり小なり懸念を抱くものです。ましてや、その筋では実写化に対しトラウマというか前科というかがありまして、下手をすれば「そもそも前科なんてなかった。いいね」「アッハイ」という空気すらあるほど。あ。アニメの話はしないので、基準がそちらの人はブラウザをそっと閉じてくだしあ。それと、ネタバレもするので、未読未見の人も回れ右で。
さて、事前においらが気にしていたのは次の4点です。
(1)関谷純の設定がちょろちょろいじられていること
3行前に「アニメの話はしない」と言いましたが、さっそく撤回。アニメ版では、関谷純の事件を33年前から45年前に大胆に変更していましたが、映画版では33年前に据え置いたものの、原作では「母の兄」や「伯父」となっている血縁関係が「叔父」と手が入っています。
……わたしには、伯父がいました。母の兄で、関谷純といいます。
米澤穂信『氷菓』,2010(第24版),p76
それは、10年前、当時5歳のえるが、失踪した叔父<関谷純>から何を聞いたのかを思い出させてほしいというものだった。
作品情報(映画『氷菓』公式サイト)
主人公たちは高校1年生、関谷純が学校を去った当時は古典部の部長だったことを考えると、えると関谷純の学年差は34ないし35ということになります。ここで、二人の関係が映画版のとおり「叔父と姪」だったとすると、えると母親の年齢差はそれ以上、つまり30代後半で初産したことになります。1980年代半ばでこれは結構珍しいのではないでしょうか。それはそれで意味のある設定になりうるところですが、映画化に際してあえて変えるような点かな、もしかして新たな鍵となるのかなと考えてしまうところです。
また、上の引用先では微妙な書き方ですが、関谷純の失踪が原作の7年前(正確には、10年前に海外渡航して7年前から行方不明)から改められたように読める点です。まあ、確かに7年経過したら速攻で失踪宣告の手続きをするというのはちょっと角があるから、ということなのかなあ。これは相変わらずエッジの効いた非公式bot、千反田えるbot嬢が吠えているので、そちらを拝借。
ある日、奉太郎がえるから受けた依頼―「10年前に失踪した伯父が残した言葉を思い出させてほしい」―それは33年前に起きたある事件と繋がっていたのだった。 https://t.co/HznkoEvno1 十年前?
— 千反田えるbot (@Chitanda_bot) June 10, 2017
関谷家は、映画のために三年間も待っていてくれていたのでしょうか。
— 千反田えるbot (@Chitanda_bot) June 10, 2017
こう書くと、「別にいいじゃない、年くらい」と沢木口先輩から飛んできそうですが、過去の経歴の積み重ねが人物に影響する以上、馬鹿にできるものではありません。何より、原作を大切にする方たちは、こういう箱からして大事にするのです。小説と漫画、映画と舞台と形態は変われど、最近でもこんな記事がありました。16日のデイリースポーツから。
「ポーの一族」は漫画家・萩尾望都氏の伝説的コミックが原作。熱狂的ファンが多く、演出の小池修一郎氏は「『設定を変えたら、萩尾望都が許しても、わたしが許さない』という手紙をいただきました」と苦笑いで説明したほどだ。
明日海りお、原作者の絶賛に「ホッ」…伝説のコミック「ポーの一族」舞台化(デイリースポーツ)
なにそれこわい。
(2)公式による過剰な「高山の売り込み」
映画版は、Twitterで公式アカウントを開設し、それなりに広報しているのですが、本作のロケの一部が行われた岐阜県高山市をやたら推してきます。
【「氷菓」の聖地 #飛騨高山】
原作の世界観を表現するため、<飛騨高山>で『#映画氷菓』の数々の重要なシーンの撮影が行われました❣ pic.twitter.com/plEBbG4yDv
— 映画『氷菓』公式 (@hyouka_movie) November 9, 2017
確かに高山市が神山市の基であることは周知の事実です。また、昨今では映画の撮影地に与える経済効果もかなりのものなので、地元との良好な協力関係を築くために、もっと言ってしまえば巡り巡って映画の評価に繋げるために、このような橋渡しをするのも分かるのです。なのですが、おいらが観たいのは「高山市が全面に出た神山市」ではなく、「小説で描かれた神山市」なのです。アニメ版では千反田家の外観を静岡県掛川市から拝借していましたが、あえて言えばそういうこと。いや、これが例えば、金沢市や東尋坊を舞台にした『ボトルネック』を実写化する際に、「もっといい断崖絶壁があったので、そっちで撮りました」と言われたら、「そうじゃないだろ……」となるでしょうよ。しかし、神山市はあくまで神山市であって、服を借りてきただけで満足してほしくない。「高山で撮影」を過剰に売り出すというのは、「まさかと思うけど、それだけで合格点を取った気になってないよね?」と不安になるのです。ここまで書いて思ったのですが、「服を借りてきただけで満足してほしくない」と文字にしてしまうと、演者がイマイチすぎるがゆえに蛇蝎のごとく実写化を嫌っている方とそう変わらないような気がしてきた。
(3)急転直下のオチの取扱い
原作では、後日談を除くと、文集の題名である『氷菓』に込められた意味を紐解いた場面で終幕します。真っ先に気がついた奉太郎が助け舟を出していく中で、一人二人と意図を察し、最後にえるがかつて関谷純に訊ねた問いとその答えを思い出すという描写があり、肝心の解自体は最後の一行で示されるという手の込みよう。
千反田は、自分の目が濡れているのにいま気づいたように目の端を手の甲で拭う。その時、持ったままのメモが俺の方に向いた。そこには、俺の下手な筆記体でこう記されていた。
米澤穂信『氷菓』,2010(第24版),p206
実は、おいらが初めて読んだとき、この後に続く最終行でようやく意味が分かりました。恐ろしい作家がいるものだとビビりましたね。この系譜は、後に『儚い羊たちの祝宴』にもつながるように思います。問題は、この展開を劇場でやれるのか、という点です。自分で速度を調節したり、行きつ戻りつしたりもできる本とは違い、映画は問答無用で進行します。あのバッサリ感を律儀にやってしまうと、3人に1人くらいはエンドロールが終わるまでずっと考えてしまうだろうし、3組に1組くらいのカップルはその後のお茶で答え合わせに時間を費やすことになります。ようし、そのまま爆発しろ。
そうなると、ある程度の前振りや分かりやすい説明は不可避のように思えるのですが、一歩一歩謎を解いていった前半と異なり、ここは勢いも大切にしてほしいところ。さてどうするのか、気になります。
(4)糸魚川教諭の反応
(3)でも少し書いたとおり、文集『氷菓』の名前を解くことで過去の記憶が蘇っていきます。この場面、姪たるえるが幼少の頃に受けた言葉を取り戻し、その意味を理解する、という「時をへて、真実が明らかになる」点が主となりますが、33年前に関谷純が残した『氷菓』の意味を受け取るというのも、大きな出来事です。この点、小説では奉太郎が珍しく喜怒哀楽を強く出してきています。
……そして千反田が、訊いた。
「先生。伯父がなぜ『氷菓』と名付けたのか、先生はご存知ですか」
だがその質問には、糸魚川教諭はゆるゆると首を横に振った。
「その名前は、退学を予感した関谷さんが、珍しく無理を通して決めた名前なのよ。自分には、これぐらいしかできないって言ってね。でも、ごめんなさいね。その意味は、わからないの」
……わからない?
本当にわかっていないのか? 糸魚川教諭も、千反田も? 伊原も、里志も?
俺は腹を立てない性分だ、疲れるから。だが俺はいま苛立ちを感じた。関谷純のメッセージを、誰も受け取れなかったというのか。この、下らないメッセージを、受け取るべき俺たちが受け取っていない。そこに俺は腹がたった。米澤穂信『氷菓』,2010(第24版),p202
この前夜、姉からの電話を受けて奉太郎は推理を再点検しています。そこにあるのは「高校生活は薔薇色か灰色か」という本作冒頭の理論。読み返すと、「そんなはずはない」という仮説を起点に、糸魚川教諭による昔話を経てたどり着いているのがわかるのですが、読者が奉太郎と同じ発想に至るのは難しいと思うのです。
というのも、このお話は、事件らしい事件が「目の前で起こらない」という珍しいお話です。日常の謎においては「起こっていない事件を解く」という例も多々ありますが、それって読者が話に入っていくのにけっこう高い壁になる気がします。偉大な先人である北村薫の「円紫さんシリーズ」でも、『六の宮の姫君』はかなり読解に悩んだ記憶が蘇ります。『氷菓』って、その後の作品に比べてこれに近いのですよ。また、高校生が身の回りの謎を解くにあたって、現場が自分たちの街の外であるだとか、当事者が おっさん 自分たちの時代の外にいるというのは、なかなか感情移入しにくいものがあると思うのです。それは逆に謎を残す側もそうじゃないかな。ゆえに、結果的に33年後の後輩たちが受け取ったという事実は残るにせよ、関谷純が本当に投げたかった相手は、当時の在校生や後輩たちだったのではないのかなと思っています。その肝心の糸魚川教諭はと言えば、
糸魚川教諭を見ると、特に反応を示していない。もしかしたら、とっくにこの意味に気づいているのかもしれないな、と俺は思った。気づいていて然るべきだ。なのに俺たちに言わないのはなぜだろう。そこまではわからないが、俺が糸魚川教諭の立場でもあまり公言するようなことではないかな、という気にもなる。それとも、これも古典部の伝統だろうか。
米澤穂信『氷菓』,2010(第24版),p203
と。このあたりの心理描写は文字に軍配が上がる、というのは百も承知ではあるものの、「できれば伝わっていてほしい」という期待を込めて、糸魚川教諭の場面がどう描かれるのか気になっています。
と、観に行く前までの話でお腹いっぱいの分量。しかし、これを二部構成にするのもしんどいので、一気に感想と答え合わせです。
(1)関谷純の設定がちょろちょろいじられていること&(2)公式による過剰な「高山の売り込み」
まずは心配していた点から。そりゃ、2006年の実写映画『最終兵器彼女』を観て以来、たいていの地雷実写映画は許容してきた(被弾していないとは言っていない)おいらですが、地雷は踏みたくありません。さんざん人に踏ませようとしていたくらいです。かなりドキドキしながら席に座りました。暗くなった矢先、実写版『鋼の錬金術師』の予告編が流れてきたときは、「やっぱダメかもしれない」と絶望しかけました。あの映画館、絶対に許さないよ。
とか言っておきながら結論を先に出すと、両方とも問題ありませんでした。次のところで書きますが、何しろ驚いたのは関谷純の人物設定がうまく広げられている、ううん、うまく深掘りされているところ。杞憂でしたね。詳しい話はそっちに回すとして、だからこそ不満なのは、おいらが心配した2点の改変が、掘った部分に作用しているとはちっとも思えなかった点です。どうして変えなければならなかったのか、煽り抜きで誰か教えてください。
(3)急転直下のオチの取扱い
これも個人的には満足でした。そもそも、このオチに説得力というか納得力を持たせるためには、奉太郎がオチを懇切丁寧に説明するという阿呆な脚本を作るか、各自の脳内でオチが導びかれるために交通整理をさせておく必要があります。奉太郎の推理の逆算で詰めていくと、「なぜ関谷純は『氷菓』という題名にしたのか」から「なぜ『氷菓』という題名をつけるような気持ちに至ったのか」となり、必然的に33年前の関谷純を手厚く映像化していく必要があります。そうそう、冷静に考えればそうなんです。主人公たちの能力を向上させたり、ご都合主義的な展開を足したりするのではなく、目の前にいない壁の外の存在を逆に見えてやるようにした方がすんなり一挙両得といくんです。その過程において、関谷純の人物描写もかなり手が加えられています。校内での立ち位置を一歩引かせてみたり、一方で六月闘争との関わり方や糸魚川教諭との関係を変えたりすることによって、原作で言うところの「静かな闘士、優しい英雄」らしさをより具体的にしています。ここは非常に上手いなと思いました。
もう一つは、『氷菓』に込められた意味を再現映像で事前に挿入した点ですね。『氷菓』の意味を問う場面ではなくもっと前に、まだ誰もその問いを出していない場面に入れたので、原作を知る者からすれば「ここに入れてきたか」と思いますし、原作未読の者からしても「さっきの場面が『氷菓』に結びつくのか」と納得できるので、ぶん投げられて終わったような感じもなくなります。原作を読むと、「33年前、関谷純に何があったのか」がほぼ解決した後に「なぜ『氷菓』と名付けたのか」が別の問いで出てくるように見えるのですが、本来は一連の流れの更問いにすぎません。えるの過去が氷解したのもそのためですし。なので、一つ目の問いを解く流れの中でもう一つの方の答えをさりげなく忍ばせるというのは、観る側にとっても納得しやすくなりますし、合理的な見せ方と言えるでしょう。もちろん、観る側にとって実に親切である一方、ネタバレの危険をはらむのですが、奉太郎が推理を行う脳内を描くという、文字では難しい場面に入れ込んだことで、違和感なく進行させていきます。上手いですね。また、文章では一行で終わりそうな動作に対し、現実と脳内再現映像を行ったり来たりさせたり、カメラワークを駆使ししたり尺を引っ張ったりと、映像ならではの利点も活かしています。
そうそう、オチと言えば、解決した後のやり取りが加わっていました。なるほど、「ベナレスからの手紙」をこう拾ってきたか、とびっくり。これは賛否分かれそうだけれど、こういう奉太郎も悪くないかなと思ったり。
(4)糸魚川教諭の反応
斉藤由貴さんが演じた糸魚川教諭、なんかこう全体的に「お疲れモード」が掛かっていて観ていて辛かったです。映画内では33年前に死にかけたので、早く転勤したいのかなあなどと考えるほどに。おいらが気にしていたところのやり取りですが、やはり明確な答えや確証はありませんでした。ただ、一度は『氷菓』創刊号を机にしまったものの、引き出しを開けてみる場面が映画内でありました。再び表紙を見て、「関谷先輩、古典となっても憶えている人たちはいましたよ」と呼びかけたのか、それとも「関谷先輩、そうだったんですね」と今さらに詫びたのか、どちらにも解釈できそうな描写が、かえって余韻として残りましたね。
以下、雑感の羅列でっす。
- 4人とも高校1年生に見えなかったけど、仕方ないね
- 里志は台詞が半分くらいにカットされていたにも関わらず、適度にウザい。原作の台詞全部盛りだったらえらいことになっていた希ガス
- 奉太郎が推理しようとするときの仕草って、あれじゃなきゃダメなの?
- スムーズに文化祭を迎えたような描き方だし、メンツ的にも続編はなさそうな悪寒
- 供恵姉の声が貫地谷しほりという無駄に贅沢な使い方だったので、続編あってもいいかな
- 遠垣内先輩ェ……
結論としてはですね、実写版『鋼の錬金術師』の予告編が流れなくなってから劇場に観に行きましょう。