前回の『決してわざとではなく。』では、『天気の子』の話をしようとして大きく脱線してしまいました。文中でもチラチラと「いつか感想を書く」みたいなことを匂わせてしまっていたので、フラグは回収しておきましょう。というか、結局おいらみたいな人間は、何かしらで書き残さないと自分の中で整理がつかないのれす。そして、今回の記事の題名は、そうは言っても感想になりきれない駄文に対する予防線と、英訳して「but nowhere near.」にするというもう一つのフラグの回収でっす。以下、ネタバレで思いついたままにだらだらと。
みんな思い出す昔の作品
前回も書いた「エロゲっぽい」という点は、DG_Lawの中の人が書いている分析に概ね同意するので、そちらを参照。
「誰かを助けると誰かが犠牲になる問題」につっこんでいくの,最高に00年頃のエロゲっぽい。
『天気の子』感想・批評 (nix in desertis)
で、「あっ」って思い出したのは、エロゲではなく2000年ころの二つの作品。一つ目が、2004年に電撃文庫から出版された有川浩の『塩の街』。Togetterにも「天気の子は有川浩作品っぽい」というのがあったので、同じような考えの人は結構いるっぽい。雲の彼方にまだ見ぬ世界があるというのは『空の中』を、映画ポスターのキャッチコピーにもなっている、帆高たちが世界を変えてしまったのか、という点は、『塩の街』を連想するようです。おいらもほとんど同じです。そりゃそうかあ。
で、『塩の街』を思い出した人たちの脳裏によみがえったと思われる場面はきっと二つあると思うんですね。一つは、秋庭が塩柱への攻撃を行おうとしているさ中の入江と真奈の会話のあたり。確かに、酔っぱらった須賀の言葉は、否が応でもこのやり取りを思い出します。
「昔さあ」
入江が真奈を向かずに口を開いた。
「愛は世界を救うって、ヘドが出そうなキャッチコピーの番組やってたの知ってる?」
これはまた話が明後日の方向へ飛んだものである。真奈はおぼろな記憶をひっくり返しつつ心許なく答えた。
「……えーと……ちっちゃいときに何回か見たかも」
「あれがもう、嫌いでねえ」
入江は横顔だけで分かるほど、心底うんざりな表情を作って見せた。
「愛は世界なんか救わないよ。賭けてもいい。愛なんてね、関わった当事者たちしか救わないんだよ。救われるのは当事者たちが取捨選択した結果の対象さ」
入江らしい辛辣な意見である。
「秋庭が作戦を成功させるとしても、彼は世界なんかを救ったんじゃない。君が先に死ぬのを見たくないってだけの、利己的な自分の感情を救ったんだ。そしてその感情の先に繋がっている君を救う。秋葉に無事でいてほしいと願う君をね。僕らが救われるのはそのついでさ。君たちの恋は君たちを救う。僕らは君たちの恋に乗っかって余禄に与るだけさ」
有川浩『塩の街』,角川文庫,2014(第18版),P238
一方、帆高が一心不乱で代々木を目指し、鳥居をくぐった瞬間は、上に引いた箇所の少し後のページに通じるものがあるように思います。
どうか、あの人が無事に戻ってきますように。
世界なんかどうなってもいい。あの人が無事だったらそれで――ほかには何も要らない。欲しくない。だからどうか、
あの人をください。
あたしにとってすべての意味を持っているあの人を。
世界で一番身勝手な祈りを呟く。
有川浩『塩の街』,角川文庫,2014(第18版),P240
廃ビルを上がりきって、さて、陽菜を取り戻しにいく仕掛けをどうするのかと思っていたら、冒頭の焼き直しでたいそう驚きました。おいおい、確かに玄関は一つであるべきだけど、そんな誰でも入れそうな入口でいいのかよ、と一瞬引きかけたけれど、その直後からのジェットコースターな映像もあって、熱を失わずに観られました。『君の名は。』でもそうだったけど、意外と精神的なところで全部を乗り越えさせるよね。じゃあ、科学的に不思議な力を解明させてから、っていう展開を望んでいるかというと、そうでもなかったり。理屈じゃなくても構わない、どんなに身勝手でも構わない、最後は祈るしかない、というのはおいらも分かっているし、だからこそぞわっとするのですよ。
ところで、『塩の街』は「相手を失いたくない」という思いを男女双方が持っている、という展開だったので、厳密には「世界を救うために誰かが犠牲になる」とか「誰かを助けることによって世界が危機に陥る」というように、世界と誰かが引き換えの関係にあったわけではないのですね。秋庭は緊張感あるミッションに向かっているけれど、命を失うことが前提ではないし、真奈があの部屋に居続けることで塩柱が崩れるわけでもない。
で、次に思い出したのが、2000年から2001年まで連載された高橋しんの『最終兵器彼女』。Togetterにも同じ人が「天気の子は最終兵器彼女という捉え方」でまとめています。つくづく、おいらの引き出しは凡庸ですね。
ヒロインが何やらすごい力を持っているという点は似通っていても、『最終兵器彼女』のお話自体は、先ほどの「バーターの関係」にはなっていません。ちせがいてもいなくても、世界は壊れていったであろうことが示唆されています。乱暴に言えば、最後まで負の方向にしか展望が無い『塩の街』です。そんな中で、おいらが「近いな」と思うのは、物語の後半、もはや人間として生きるのもギリギリの状況に陥ったときの場面です。その直前、カワハラに「その時は、ちせは、オレが殺す」と啖呵を切ったシュウジは、すんでのところで、ちせを抱え、雨の中で叫ぶのでした。
「いるんだろ!? いるんだろ? 出てこい! 出てこい! そこにいるんだろ!?」
「生きてます。ちせは、まだ生きています」
ぼくは、罪を、おかした――
――この星の、すべてのまだ命あるものに。
高橋しん『最終兵器彼女』第7巻「ラブ・ソング(3)」,小学館,2002,pp58-62
――ぼくは、罪をおかした。
――ただ自分の利己的な衝動で…ちせを裏切り、この星に…ちせを…放った。
高橋しん『最終兵器彼女』第7巻「ラブ・ソング(4)」,小学館,2002,pp63-64
恋するがゆえ、世界の災厄がわずかに長くなることと引き換えにちせを生き永らえさせたシュウジですが、ちせはその判断にこう返しています。
「あたしはあの時、シュウちゃんに見守られて、消えてなくなりたかった。そんなふうに恋があたしを救ってくれるかもって期待したんだ。
でも、現実は、恋はあたしを楽にはしてくれなかった。生きて、最後まで戦えと、エッチの…快感まであたしに与えて、最後まで恋しろと。
ねぇ? シュウちゃんが、あたしに生きろって言ったんだよ。
――だから…
……シュウちゃん? この星が終わる時は、つき合ってね……」
高橋しん『最終兵器彼女』第7巻「ラブ・ソング(10)」,小学館,2002,pp200-201
世界が救われるのは愛のおまけなのか、それとも世界が終わっても恋は続いていくのか、どちらのお話も浮かんだというのは、面白いところですね。『最終兵器彼女』の最終巻のあとがき(のようなページ)で、高橋しんは、この物語を「ハッピーじゃないけれど、不幸せじゃない。正しくなんてないけど、間違ってない。救いはないけど、記憶とその先だけはちゃんと、ある」話だと表現しています。なるほど。『天気の子』も、どちらかに寄せて読むだけでいいのか、というのを含めて、解釈が委ねられているように思います。まあ、おいらは後述のとおり寄せて観ましたけど。
「物わかりのいい大人」ほど辛い
今まで以上に、コンプライアンスに厳しい人たちがいたと聞いていますが、「たかが映画じゃないか」でいいじゃない。いい大人がそんなことで目くじらを立ててどうすんのさ。
って、思ったんですが、そういう「物わかりのいい大人(だと思っている人、を含む)」ほど観ていて辛かったんじゃないでしょうか。上でも書いた須賀の場面、「最小の犠牲で最大の幸福が得られるのであれば、その犠牲も致し方ない」というような発想は、物わかりのいい大人ほど「そうだね、仕方ないね」と思うはずです。ただし、「でも、できれば自分の知らない誰かでお願いします」という条件を内に秘めたままで。一見して世間から外れたような須賀が、家族や社会とのつながりに絡め捕らわれているさまは、なんかもうつらい。警察の来訪から手切れ金代わりの餞別のあたり、そこに加えて「最小の犠牲」の話を切り出すところまで、もうフレーム単位で評価が大暴落です。でも、仮に自分が同じ立場になったとしたら、きっとなぞるような行動を取るんだろうなと思うと、頭を抱えるしかありません。つらい。だってしょうがないじゃない。観ながら何度心の中で言い訳したことか。夏美のダメ出しも堪えます。でも、その夏美にしたって、普段の彼女からは想像もつかないような定型句で就職活動に臨むあたり、こうやって「物わかりのいい大人」になっていくんだろうなと思うと、これまたつらいものがあります。また、夏美よりも下の帆高や陽菜、そして凪が、大人たちの枠にはめられそうになりながら、「誰にも迷惑をかけていません」と抗うさまは、「物わかりのいい大人」たちをカッコ悪いと思っていた在りし日を思い出して、よりつらくなります。大人を頼れない三人の危うい逃避行を見ていると、人間のつながりの脆さはかなさが見え、三人いる三人それぞれのかなしみがむしろにじみ出て、応援したくなるのだと思いました。
「しーっ、ハルカ、しーっ」
「わたしは犬か」
「いや本当に。駄目だよハルカ、この町でそんなこと言ったら。さっきも言ったでしょ。水野報告は大人たちの夢で、高速道路は神様なんだから」
「カミサマのバチが当たる?」
「異端者め、って町中の大人たちが集まってきて、火あぶりにされちゃうよ」
わたしは笑った。リンカも、くすくすと笑いだした。
米澤穂信『リカーシブル』,新潮社,2013,P122
須賀の話に戻しましょ。そんな大人であるがゆえに、彼は安井刑事の老獪な言い回しに心を動かされ、ご丁寧に警察を廃ビルに誘導する役割を果たしてしまうわけです(という流れだと理解しています)。どうでもいいですが、高井刑事が陽菜たちのアパートを訪れた際、三和土に帆高の靴があったにも関わらず誰を張り付けるでもなく逃がしてしまったのは、今でも違和感あります。警察署での大脱走劇以上の失態だと思うんだけど。
閑話休題。その高井刑事たちと帆高が廃ビルで銃口を向け合った際、高井刑事はポツリと「撃たせてくれるなよ」的なことをこぼします。パトカーの中で帆高の電波な(としか受け止めようのない)言葉を聞いて面倒くさそうな態度をとったあたりも含め、彼もまた「物わかりのいい大人」ですね。帆高が逃げ出したこと、警察が把握できなかった銃を途中で手に入れてしまったこと、それに輪を掛けて発砲に至ったり、場合によっては警察が応じなければならなくなったりすれば、警察として面倒くさいことこの上ありません。須賀も双方に対して銃を下ろすように呼びかけます。けれど、それは多分に、帆高にこれ以上の罪を重ねさせてはならない、という、大人としての立場からでしょう。帆高がなぜ震える手で反抗しているのかには、目を向けられないままで。実に現実的で人間らしい大人の描写じゃありませんか。でも、だからこそ、映画を観ている「物わかりのいい大人」たちは帆高に対して、「そうだ。撃つな」と「いや、撃て」という二つの思いを抱き、その逡巡で心拍を加速させるのです。何で、映画の世界でまで感情の板挟みに遭わねばならないのです。つらい。そしてダメ押しに、最後の最後で帆高の背中を押す須賀に対して、現実にはああいう対応すらできなさそうな自分を棚に上げて「おっせぇんだよ、オグリッシュ!!1」って思っちゃったり、大人びた言動を重ねてきた凪が、ここにきて弟としての年相応の願いを託すあたり、「凪くんさんせんぱいかっけー」と、接尾語がおかしくなっちゃったりするんです。ますますつらい。しかし、それでこその新海誠。ぐはー。
真の幸福は奉仕と献身のうちにしかないと言われますが、一瞬の晴れが戻ったあとに、「めでたしめでたし」と生活する何も知らない大人たちを観て、水没した東京でもそこそこに順応する何も知らない大人たちを観て、おいらたちはどう思えばいいんだろう。今からでも捨身を知ることがあるのでしょうか。
何かに背を向けた「物わかりのいい大人」たちのその背中に、娯楽という鞘を纏いながらも切っ先を突き付けてきたお話のように思っています。年齢はさておき、かの少年少女たちのように強く生きられるかというと、自信がありません。やっぱりつらい。何度目だ、これ。
「リンカは高速道路が来るなんて思ってないんでしょ? 来ればいいとも思ってない。なのになんで、こんなことしたの」
するとリンカは、小さくぺろっと舌を出した。
「ごめんねハルカ、わたしもこれで、いろいろたいへんなのよ」
米澤穂信『リカーシブル』,新潮社,2013,P357
半端ない帆高の童貞感
いや、決して悪い意味じゃなくて。これについては、こころりさんのポストで吹き出しつつも同意した記憶があります。きっと、作品全体から排除しようとして排除しようとして、妙に偏って残ってしまったのが帆高のキャラクタなんじゃないかなあ。
・エロゲっていうかラノベ。2000年代の世界系のラノベ
・新海誠頑張って君の名はファン層に寄せてきたと思う
・でも童貞感はすごい
・子ども特有の世界の狭い感じ、現代の貧困世代の感じはすごい
・主人公周りの大人たちの判断と行動は個人的にはマイナス度が高い— こころりP(オカザキ)@四日目西C39a (@ccll_ok) August 13, 2019
まあ、高校1年生にしてノープランで本土上陸するあたり、帆高もたいていしょうもない子です。東京って確かに怖いけど、お前の無鉄砲っぷりも、ぶっ放した鉄砲顔負けの怖さですよ。おまけに、どうにか食いつないだかと思ったら、未成年の女の子に(文字通り)体を削らせる副業を始めるわけですから、たいがいです。うん、こう書くと酷いな。
そんな彼を見ていて、成長の兆しが見て取れたというか、「おお」と思った箇所が二つありました。っていうか、なんだその上から目線。一つ目は、上でも書いた廃ビルで警察と対峙した場面ですね。陽菜に言われたのと同じ場所であるのもあってか、一回目の危機と違う対応を見せています。もっとも、陽菜も陽菜で、帆高が警察に確保されそうになった時に、拳銃よりも人が死にかねない雷撃を呼んでいるわけで、その点は、帆高に一生言われ続けても仕方がないレベルだと思いました。というか一生言われるくらい末永く爆発しろ。
もう一つは、帆高が再び本土にやってきた後のこと。それまでの二年半に一度も連絡を取っていないというのも、それでいてそのまま彼女のもとに向かうというのも、どんな自信やねん、と、かえってこっちが赤面しちゃうくらいの展開です。まあ、もし秒速的な終わり方になっていたとしても、おいらはその愛が徒労とも思わなかったけれど。帆高は、須賀に「世界は元から狂っていた」と、かつての依頼人から「かつて海だった場所が元に戻っただけ」と、大人たちに諭されながらかつての線路際に向かいます。それらは、意識的にしろ無意識にしろ、「自分たちの恋のせいで、東京が水に沈んだ」という仮説に対する大人たちの最大限のフォロー。ただ一方で、そうやって因果関係を断ち切るのは、「物わかりのいい大人」たちの常套手段でもあります。ここは「そうじゃないんだ」と、帆高たちの恋は帆高たちを救う、東京が水没したのはその余禄というか予定外の出費なんだと、身勝手でもいいから貫いてほしいと願って観ていました。帆高があのまま「そういうものかなあ」的な感じで受け入れていたら、仮にハッピーエンドで終わったとしても、「帆高くん、つまらない大人になっちゃったなあ」と落胆したことと思います。だからこそ、あの神々しいまでの祈るさまも、どちらとも解釈しうる終わり方も、非常によかったと思うのですね。
おまけ
というわけで、前回の『決してわざとではなく。』で、先送りにしていた『天気の子』の話でした。そういえば、川端康成の写真に絡めて「康成については、『天気の子』関係で後ほど触れるのですがそれはさておき」と書いていましたが、今回のエントリで三ヶ所ほど借りています。やや強引な引き方ですが、半分は駄洒落みたいなものなのでご容赦を。