君と夜の隅で。

初っ端から少しばかりお詫びを。台湾の九合一選挙のことを書いた、昨年11月の「ぼーと・ざ・ぶろっく!」というエントリですが、本文とほとんど関係ないうえに、たぶん英語としても成立していない謎の題名でした。

しかも、作品を全部観たのは、今年2月のニコニコ動画の「後藤ひとり誕生祭」のタイムシフトだったので、11月の時点で話をほとんど追えていなかったし、なんだったら第12話で演奏される『星座になれたら』も、2月のヒトカラのときには曲名しか知りませんでした。そういうことを平気でするおいらです。しかも連想するのがMr.Childrenというあたり、年齢がバレる。

そのニコニコ動画のタイムシフトで第12話の文化祭の場面を観たときは、突然の危機と起死回生の策に目を奪われてしまい、肝心の演奏に頭が向かわなかったというのが正直なところ。もう、観ているこっちだって「どうしよどうしよどうしよ」ってなっているから、曲の印象が薄くなるのは仕方ないよね。演出の勝利というか、後日、解説のイラストをTwitterで拾ったけれど、劇的すぎるでしょ。

その後、『星座になれたら』も通しで聴いたのだけれど、なにこれ、すごく歌詞がいい。正の方向とは言い切れないものの、第4話で披露された負のオーラ全開のノートとの違いに驚く。散りばめられた韻の踏み方も好み、前後半の対のなり方も素敵。メタな視点になるけれども、1人に向けてなのか3人に対してなのかはさておき、自分の感情を狭い押し入れの中だけで発散させるだけではないところに変化が見出せるのもいいよね。

いやもう、何を食べたら「変われるかな 夜の淵を なぞるような こんな僕でも」なんて言葉の使い方ができるようになるんだろう。マジで教えてください。上に書いたように、おいらは「夜の淵」と言われてもRADWIMPSじゃなくて『君が好き』しか浮かばないし、しかも具体的な情景はそのあとの「アパートの脇」が勝ってしまうような凡人です。ただでさえ静かで暗い時間の中でも、より深くより濃い世界で過ごすさまが浮かびやすくなるので、これはぞわっとしますね。最初に聴いたときは、「光も届かないような世界の、さらに隅っこを落ちそうになりながら生きている」という意味で「夜の縁」かと思ったし、個人的には「変われるかな」や「なぞる」を紐付けるならこっちじゃないのかなあって気持ちは今も強いのだけれど。いずれにしても、詞先で作っている設定とはいえ、これだけハマる詞を書けたときの満足感は半端なかっただろうなあと推測します。いや、そうであってほしい。

そんな、作中で描かれていない(原作でどうだったかは知らない)作詞の場面に思いを馳せていてふと蘇ったのは、2007年の映画『檸檬のころ』。え。もう16年も前なの。豊島ミホの同名の短編集を映画化した作品で、榮倉奈々や柄本佑が出演していました。その中で、音楽ライター志望の女の子を谷村美月が演じていました。やはり教室でちょっと(どころじゃなく)浮いていて、軽音楽部が文化祭で演奏する曲の作詞を頼まれます。演奏者が作詞したわけではないのと、曲先という点は違っているけれど、なかなか歌詞が書けずに悩むというところは同じ。そんな彼女にある夜、ふとした契機が訪れます。それはそれは、どこからか降って湧いたことが、何かとの釣り合いとしか思えないくらいに。

アスファルトには冷えた空気が下り、さらした膝が少し寒かった。でも身体の底は熱くて、その温度差が不思議な高揚感を私に与えた。嬉しいでも悲しいでもないけれど、何か大声で歌いたいような気分だった。けれども、この今の気持ちにしっくりくる歌は、私の膨大なはずのデータベースのどこにもなかった。あの曲は似てるけど何か違う、もう一つ違う……など、悩みながらふと一つのメロディーが引き出された。辻本くんの作った曲だった。

――あ。言葉が乗る。

二小節ばかり、こっそりと口にしてみた。それは唇を離れると、人気のない夜の道にすっと透き通って消えた。どきどきした。

もう一度、同じ言葉で口ずさんでみた。もう一度。今度はもう少し先まで。そうだ。こうだ。

歌っているのに、歩調は速くなる一方で、私はずけずけと大股で歩きながら夜道に言葉を歌いこぼしていった。だんだん息が苦しくなって、途中で足を止めて深呼吸したりした。胸は速く打ち、頬は熱を帯びていた。さえた目に、冷たく澄んだ空気が染みた。

私は目を閉じてすっと息を吸い込んだ。

「……とどーかなーぃとどーかな~ぃ ゆーびがーちぎーれそーでーも~」

――サビの半分、できた。

目を開いて空を仰ぐと、電線の上に遠く空が広がっていた。街灯があるところはぼんやりと光にかすみ、明かりが途切れた辺りにはわずかな点、星が光る。

私は家に向かって走り出した。詞を完成させるために。

豊島ミホ『檸檬のころ』,2021(第7版),pp203-204

あれ。読み返してみたけれど、歩いていた。いや、映画だと、夜道を自転車を漕いでいて、詞が浮かんで口ずさむあたりから大爆走になっていったような記憶があるんだけどな。気持ちが痛いくらいによく分かるし、いかばかりか報われたような、でもまだ足りていないもどかしさが伝わってきたのを覚えています。その場面がやたら印象的で、今回の(描かれていないけれど)話を反芻していたとき、唐突に思い出したのでした。今思い返しても谷村美月はいい役者さんだし、豊島ミホもあそこから慌てず焦らず書いていたら、って考えちゃうんだけどね。

何かを言葉で表現するというのは、究極のところ個人の作業でしかない。最後の最後は自分自身から出てくるものしか頼れないのだから。その一方で、誰も見ていない夜の水底で綴られた思いが、誰かの作った音符と組んで、さらに別の誰かの声に乗るというのは、しかも各々が変に力を加えずに完成させられるのは、単純に羨ましい。だから、十二分に変わったことを表す仕上がりにしてなお「変われるかな」と問うような子に、絶望の際に一人でいるわけではないよという演出で応えたところを知ってまた震えるのです。ああでも、もしもまだ願いが一つ叶うとしたら、その一歩手前で、不安と期待の入り混じった歌詞を書き上げた頃の彼女に、あの駆け出すような全能感を与えてくれていたのならいいな。

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