水の粒子は過去へと還る。

最近、とんと本屋に行かなくなっているので反省しなければなりません。今さらながら米澤穂信の『満願』の文庫本を買おうとしたら、その横には『リカーシブル』も。時系列的には当たり前ではあるものの、珍しく単行本で手に入れていただけに感慨深いものがありました。こっちは買わない代わりに(おい)巻末の解説を立ち読みしたところ(おいおい)、結末を迎えてのハルカの気持ちの変化をきれいに表現していたので唸りました。プロは違いますね。



あ。ヒロインはハルカかもしれませんが、おいらの嫁は在原リンカです。

ここまで書けばお察しかと思います。今月公開となった米澤穂信原作の映画『氷菓』のお話です。小説にしろ漫画にしろ、実写映画化というものは手放しで喜ばれたわけではありません。映画となれば尺の制約、役者の力量、大人の事情、様々なプラスマイナスがお話に入り込みます。原作を知るものからすれば、話を壊すような出来栄えになっていないかどうか、というのは大なり小なり懸念を抱くものです。ましてや、その筋では実写化に対しトラウマというか前科というかがありまして、下手をすれば「そもそも前科なんてなかった。いいね」「アッハイ」という空気すらあるほど。あ。アニメの話はしないので、基準がそちらの人はブラウザをそっと閉じてくだしあ。それと、ネタバレもするので、未読未見の人も回れ右で。

さて、事前においらが気にしていたのは次の4点です。

(1)関谷純の設定がちょろちょろいじられていること

3行前に「アニメの話はしない」と言いましたが、さっそく撤回。アニメ版では、関谷純の事件を33年前から45年前に大胆に変更していましたが、映画版では33年前に据え置いたものの、原作では「母の兄」や「伯父」となっている血縁関係が「叔父」と手が入っています。

……わたしには、伯父がいました。母の兄で、関谷純といいます。

米澤穂信『氷菓』,2010(第24版),p76

それは、10年前、当時5歳のえるが、失踪した叔父<関谷純>から何を聞いたのかを思い出させてほしいというものだった。

作品情報(映画『氷菓』公式サイト)

主人公たちは高校1年生、関谷純が学校を去った当時は古典部の部長だったことを考えると、えると関谷純の学年差は34ないし35ということになります。ここで、二人の関係が映画版のとおり「叔父と姪」だったとすると、えると母親の年齢差はそれ以上、つまり30代後半で初産したことになります。1980年代半ばでこれは結構珍しいのではないでしょうか。それはそれで意味のある設定になりうるところですが、映画化に際してあえて変えるような点かな、もしかして新たな鍵となるのかなと考えてしまうところです。

また、上の引用先では微妙な書き方ですが、関谷純の失踪が原作の7年前(正確には、10年前に海外渡航して7年前から行方不明)から改められたように読める点です。まあ、確かに7年経過したら速攻で失踪宣告の手続きをするというのはちょっと角があるから、ということなのかなあ。これは相変わらずエッジの効いた非公式bot、千反田えるbot嬢が吠えているので、そちらを拝借。


こう書くと、「別にいいじゃない、年くらい」と沢木口先輩から飛んできそうですが、過去の経歴の積み重ねが人物に影響する以上、馬鹿にできるものではありません。何より、原作を大切にする方たちは、こういう箱からして大事にするのです。小説と漫画、映画と舞台と形態は変われど、最近でもこんな記事がありました。16日のデイリースポーツから。

「ポーの一族」は漫画家・萩尾望都氏の伝説的コミックが原作。熱狂的ファンが多く、演出の小池修一郎氏は「『設定を変えたら、萩尾望都が許しても、わたしが許さない』という手紙をいただきました」と苦笑いで説明したほどだ。

明日海りお、原作者の絶賛に「ホッ」…伝説のコミック「ポーの一族」舞台化(デイリースポーツ)

なにそれこわい。

(2)公式による過剰な「高山の売り込み」

映画版は、Twitterで公式アカウントを開設し、それなりに広報しているのですが、本作のロケの一部が行われた岐阜県高山市をやたら推してきます。


確かに高山市が神山市の基であることは周知の事実です。また、昨今では映画の撮影地に与える経済効果もかなりのものなので、地元との良好な協力関係を築くために、もっと言ってしまえば巡り巡って映画の評価に繋げるために、このような橋渡しをするのも分かるのです。なのですが、おいらが観たいのは「高山市が全面に出た神山市」ではなく、「小説で描かれた神山市」なのです。アニメ版では千反田家の外観を静岡県掛川市から拝借していましたが、あえて言えばそういうこと。いや、これが例えば、金沢市や東尋坊を舞台にした『ボトルネック』を実写化する際に、「もっといい断崖絶壁があったので、そっちで撮りました」と言われたら、「そうじゃないだろ……」となるでしょうよ。しかし、神山市はあくまで神山市であって、服を借りてきただけで満足してほしくない。「高山で撮影」を過剰に売り出すというのは、「まさかと思うけど、それだけで合格点を取った気になってないよね?」と不安になるのです。ここまで書いて思ったのですが、「服を借りてきただけで満足してほしくない」と文字にしてしまうと、演者がイマイチすぎるがゆえに蛇蝎のごとく実写化を嫌っている方とそう変わらないような気がしてきた。

(3)急転直下のオチの取扱い

原作では、後日談を除くと、文集の題名である『氷菓』に込められた意味を紐解いた場面で終幕します。真っ先に気がついた奉太郎が助け舟を出していく中で、一人二人と意図を察し、最後にえるがかつて関谷純に訊ねた問いとその答えを思い出すという描写があり、肝心の解自体は最後の一行で示されるという手の込みよう。

千反田は、自分の目が濡れているのにいま気づいたように目の端を手の甲で拭う。その時、持ったままのメモが俺の方に向いた。そこには、俺の下手な筆記体でこう記されていた。

米澤穂信『氷菓』,2010(第24版),p206

実は、おいらが初めて読んだとき、この後に続く最終行でようやく意味が分かりました。恐ろしい作家がいるものだとビビりましたね。この系譜は、後に『儚い羊たちの祝宴』にもつながるように思います。問題は、この展開を劇場でやれるのか、という点です。自分で速度を調節したり、行きつ戻りつしたりもできる本とは違い、映画は問答無用で進行します。あのバッサリ感を律儀にやってしまうと、3人に1人くらいはエンドロールが終わるまでずっと考えてしまうだろうし、3組に1組くらいのカップルはその後のお茶で答え合わせに時間を費やすことになります。ようし、そのまま爆発しろ。

そうなると、ある程度の前振りや分かりやすい説明は不可避のように思えるのですが、一歩一歩謎を解いていった前半と異なり、ここは勢いも大切にしてほしいところ。さてどうするのか、気になります。

(4)糸魚川教諭の反応

(3)でも少し書いたとおり、文集『氷菓』の名前を解くことで過去の記憶が蘇っていきます。この場面、姪たるえるが幼少の頃に受けた言葉を取り戻し、その意味を理解する、という「時をへて、真実が明らかになる」点が主となりますが、33年前に関谷純が残した『氷菓』の意味を受け取るというのも、大きな出来事です。この点、小説では奉太郎が珍しく喜怒哀楽を強く出してきています。

……そして千反田が、訊いた。

「先生。伯父がなぜ『氷菓』と名付けたのか、先生はご存知ですか」

だがその質問には、糸魚川教諭はゆるゆると首を横に振った。

「その名前は、退学を予感した関谷さんが、珍しく無理を通して決めた名前なのよ。自分には、これぐらいしかできないって言ってね。でも、ごめんなさいね。その意味は、わからないの」

……わからない?

本当にわかっていないのか? 糸魚川教諭も、千反田も? 伊原も、里志も?

俺は腹を立てない性分だ、疲れるから。だが俺はいま苛立ちを感じた。関谷純のメッセージを、誰も受け取れなかったというのか。この、下らないメッセージを、受け取るべき俺たちが受け取っていない。そこに俺は腹がたった。

米澤穂信『氷菓』,2010(第24版),p202

この前夜、姉からの電話を受けて奉太郎は推理を再点検しています。そこにあるのは「高校生活は薔薇色か灰色か」という本作冒頭の理論。読み返すと、「そんなはずはない」という仮説を起点に、糸魚川教諭による昔話を経てたどり着いているのがわかるのですが、読者が奉太郎と同じ発想に至るのは難しいと思うのです。

というのも、このお話は、事件らしい事件が「目の前で起こらない」という珍しいお話です。日常の謎においては「起こっていない事件を解く」という例も多々ありますが、それって読者が話に入っていくのにけっこう高い壁になる気がします。偉大な先人である北村薫の「円紫さんシリーズ」でも、『六の宮の姫君』はかなり読解に悩んだ記憶が蘇ります。『氷菓』って、その後の作品に比べてこれに近いのですよ。また、高校生が身の回りの謎を解くにあたって、現場が自分たちの街の外であるだとか、当事者が おっさん 自分たちの時代の外にいるというのは、なかなか感情移入しにくいものがあると思うのです。それは逆に謎を残す側もそうじゃないかな。ゆえに、結果的に33年後の後輩たちが受け取ったという事実は残るにせよ、関谷純が本当に投げたかった相手は、当時の在校生や後輩たちだったのではないのかなと思っています。その肝心の糸魚川教諭はと言えば、

糸魚川教諭を見ると、特に反応を示していない。もしかしたら、とっくにこの意味に気づいているのかもしれないな、と俺は思った。気づいていて然るべきだ。なのに俺たちに言わないのはなぜだろう。そこまではわからないが、俺が糸魚川教諭の立場でもあまり公言するようなことではないかな、という気にもなる。それとも、これも古典部の伝統だろうか。

米澤穂信『氷菓』,2010(第24版),p203

と。このあたりの心理描写は文字に軍配が上がる、というのは百も承知ではあるものの、「できれば伝わっていてほしい」という期待を込めて、糸魚川教諭の場面がどう描かれるのか気になっています。

と、観に行く前までの話でお腹いっぱいの分量。しかし、これを二部構成にするのもしんどいので、一気に感想と答え合わせです。

(1)関谷純の設定がちょろちょろいじられていること&(2)公式による過剰な「高山の売り込み」

まずは心配していた点から。そりゃ、2006年の実写映画『最終兵器彼女』を観て以来、たいていの地雷実写映画は許容してきた(被弾していないとは言っていない)おいらですが、地雷は踏みたくありません。さんざん人に踏ませようとしていたくらいです。かなりドキドキしながら席に座りました。暗くなった矢先、実写版『鋼の錬金術師』の予告編が流れてきたときは、「やっぱダメかもしれない」と絶望しかけました。あの映画館、絶対に許さないよ。

とか言っておきながら結論を先に出すと、両方とも問題ありませんでした。次のところで書きますが、何しろ驚いたのは関谷純の人物設定がうまく広げられている、ううん、うまく深掘りされているところ。杞憂でしたね。詳しい話はそっちに回すとして、だからこそ不満なのは、おいらが心配した2点の改変が、掘った部分に作用しているとはちっとも思えなかった点です。どうして変えなければならなかったのか、煽り抜きで誰か教えてください。

(3)急転直下のオチの取扱い

これも個人的には満足でした。そもそも、このオチに説得力というか納得力を持たせるためには、奉太郎がオチを懇切丁寧に説明するという阿呆な脚本を作るか、各自の脳内でオチが導びかれるために交通整理をさせておく必要があります。奉太郎の推理の逆算で詰めていくと、「なぜ関谷純は『氷菓』という題名にしたのか」から「なぜ『氷菓』という題名をつけるような気持ちに至ったのか」となり、必然的に33年前の関谷純を手厚く映像化していく必要があります。そうそう、冷静に考えればそうなんです。主人公たちの能力を向上させたり、ご都合主義的な展開を足したりするのではなく、目の前にいない壁の外の存在を逆に見えてやるようにした方がすんなり一挙両得といくんです。その過程において、関谷純の人物描写もかなり手が加えられています。校内での立ち位置を一歩引かせてみたり、一方で六月闘争との関わり方や糸魚川教諭との関係を変えたりすることによって、原作で言うところの「静かな闘士、優しい英雄」らしさをより具体的にしています。ここは非常に上手いなと思いました。

もう一つは、『氷菓』に込められた意味を再現映像で事前に挿入した点ですね。『氷菓』の意味を問う場面ではなくもっと前に、まだ誰もその問いを出していない場面に入れたので、原作を知る者からすれば「ここに入れてきたか」と思いますし、原作未読の者からしても「さっきの場面が『氷菓』に結びつくのか」と納得できるので、ぶん投げられて終わったような感じもなくなります。原作を読むと、「33年前、関谷純に何があったのか」がほぼ解決した後に「なぜ『氷菓』と名付けたのか」が別の問いで出てくるように見えるのですが、本来は一連の流れの更問いにすぎません。えるの過去が氷解したのもそのためですし。なので、一つ目の問いを解く流れの中でもう一つの方の答えをさりげなく忍ばせるというのは、観る側にとっても納得しやすくなりますし、合理的な見せ方と言えるでしょう。もちろん、観る側にとって実に親切である一方、ネタバレの危険をはらむのですが、奉太郎が推理を行う脳内を描くという、文字では難しい場面に入れ込んだことで、違和感なく進行させていきます。上手いですね。また、文章では一行で終わりそうな動作に対し、現実と脳内再現映像を行ったり来たりさせたり、カメラワークを駆使ししたり尺を引っ張ったりと、映像ならではの利点も活かしています。

そうそう、オチと言えば、解決した後のやり取りが加わっていました。なるほど、「ベナレスからの手紙」をこう拾ってきたか、とびっくり。これは賛否分かれそうだけれど、こういう奉太郎も悪くないかなと思ったり。

(4)糸魚川教諭の反応

斉藤由貴さんが演じた糸魚川教諭、なんかこう全体的に「お疲れモード」が掛かっていて観ていて辛かったです。映画内では33年前に死にかけたので、早く転勤したいのかなあなどと考えるほどに。おいらが気にしていたところのやり取りですが、やはり明確な答えや確証はありませんでした。ただ、一度は『氷菓』創刊号を机にしまったものの、引き出しを開けてみる場面が映画内でありました。再び表紙を見て、「関谷先輩、古典となっても憶えている人たちはいましたよ」と呼びかけたのか、それとも「関谷先輩、そうだったんですね」と今さらに詫びたのか、どちらにも解釈できそうな描写が、かえって余韻として残りましたね。

以下、雑感の羅列でっす。

  • 4人とも高校1年生に見えなかったけど、仕方ないね
  • 里志は台詞が半分くらいにカットされていたにも関わらず、適度にウザい。原作の台詞全部盛りだったらえらいことになっていた希ガス
  • 奉太郎が推理しようとするときの仕草って、あれじゃなきゃダメなの?
  • スムーズに文化祭を迎えたような描き方だし、メンツ的にも続編はなさそうな悪寒
  • 供恵姉の声が貫地谷しほりという無駄に贅沢な使い方だったので、続編あってもいいかな
  • 遠垣内先輩ェ……

結論としてはですね、実写版『鋼の錬金術師』の予告編が流れなくなってから劇場に観に行きましょう。

環の如くめぐりては。

東洋大学が毎年まとめている「現代学生百人一首」に昨年(発表されたのが昨年なので、応募自体は一昨年)、こんな一首がありました。ほぼ毎年、入選作品を引いている朝日新聞の「天声人語」がブックマークのリンク先になっていますが、既に途切れているので、東洋大学のサイトに載っている100+10首から気合で探してくらさい。



黒板というのが「学生百人一首」っぽくていいですよね。誰かが書いては誰かが消し、誰もが見ては誰か一人がそれを受け取るという、瞬間瞬間があっという間に過去となる学生生活を表しているかのような素敵な小道具です。最近だと「黒板アート」も時々ニュースになるけれど、あれも刹那の芸術という点では黒板がうってつけだと思います。大人になっちゃうと黒板ってあまり見ないしね。はいそこ、現場写真用の小さな黒板の話はそこまでだ。

さて、今回は、台湾で見つかった古い黒板のお話。今年8月、台南市左鎮区にある左鎮国小(小学校)で、校舎の建て替えに伴って事務室のホワイトボードを取り除いたところ、下から、月間行事予定を書いた黒板が出てきたのです。ああ、こういう予定表の黒板、おいらが通っていた小学校にもありましたありました。

この予定表、8月12日の聯合報を見ると、チョークの文字がしっかり残っていることがわかります。右端を見ると、「臺南縣左鎮國民小學 六月份行事暦」とあります。で、いつの六月かと言うと、今から26年前の1991年でした。なにそれ。おいらがまさに小学校に通っていた頃じゃないですか。 だから、歳がバレる。 おいらにとって追憶の彼方の時代なのに、なんでこんなに鮮明に残っているんですか。あと、字がきれいっす。聯合報の記事によると、黒板の下2行は児童の登下校を誘導する当番らしいのですが、ここに名前のある方のうち3人は既に亡くなられているそうです。なるほど、死して名を残すとはこのことか、と、違うんだけど妙に納得してみたり。

この校舎は1964年の白河地震の後に再建され、さらに昨年の高雄美濃地震(台湾南部地震)を契機に再び建て替えられることになったそうです。ということは、第二次世界大戦後の台湾において2番目と3番目に被害が大きかった地震(交通部中央気象局のサイトによれば、白河地震は死者106人、美濃地震は死者117人。戦後、台湾で死者が100人を超えたのは、このほかに921大地震の2,415人のみ)に挟まれた50数年間、数多くの子供たちが学んでいたことになります。じゃあ1991年から2016年まではどうなっていたのか、というと、ホワイトボードの導入にあたって、この黒板を下に残したみたい。その時に消さなかったことが今となっては「いい話」になっていますが、残すにしても変に絵を描いたりせず事務的にそのままというのはすごいなあ。

当然のごとく、この黒板を保存する声が高まるのですが、11月2日の聯合報にある解体業者の話によれば、この黒板の裏側は、正確に言えば壁ではなくレンガのブロックなので、原形で取り外すのは難しいとのこと。しかし、11月4日の聯合報を見ると、解体業者の社長が自ら小学校に足を運んで作業員らとシミュレーションを重ねた結果、手作業によって無事に取り外されたそうです。記事によれば、新しい校舎の中で保存できるよう設計変更を依頼しているとのこと。

そういえば、26年前にも「現代学生百人一首」はありました。1991年に応募された作品から選ばれたものが第5回「現代学生百人一首」入選作品として集められています。湾岸戦争やトレンディドラマなど、世相を反映した作品が並ぶ中、意外な共通点のある歌がありました。

一枚の残暑見舞いは変わらぬ字恩師の声が聞こえてきそう

池田志津恵, 東洋大学, 『第5回「現代学生百人一首」』, 1992

書かれている場所は違えども、恩師の変わらぬ字から声が聞こえてきそうなのは、左鎮国小の黒板も同じです。なんとも不思議なつながりです。

あ、おいらが「冬の陸奥湾に飛び込みたくなる歌」と書いたオリオン座のやつに似たのもありますね。

シリウスはあなたが一番好きな星今も夜空を見あげてますか

井上幸子, 東洋大学, 『第5回「現代学生百人一首」』, 1992

ぐはー。

ジルコニアの瞳は濁らない。

前回の「ある女性作家の死まで。」から、早くも半年。この間、何をやっていたのかと問われると、空いている時間は例のアレとかWikipediaの「八八水災」を訳したりとかしていました。嘘です。ほとんど怠けていました。

Wikipediaの履歴を見ると、翌2010年から書き始めていましたね。毎年夏が近くなると、「あれ、完成させないと」とは思うもののつい投げ出してしまい、足かけ七年です。語呂合わせで「八年後の八月八日にアップしよう」と、「今年こそ頑張る」状態で臨んでいたのですが、結局は「八年後の八月八日プラス八×八日」という有様でっす。それにしても、日本での呼称に合わせたとはいえ、「八八水」という記事名は、どうもしっくりきません。むう。



今年の夏、同じような繰り返し呼称、というか略称でやはりしっくり来なかったのが、TOKYO MXほかで放送された『プリプリ』こと『プリンセス・プリンシパル』でっす。なんでや。「プリプリ」言ったら、『Diamonds』を歌ってた人たちやろ。などという、いつにも増して 歳がばれる 強引な導入。

もともとですね、『プリンセス・プリンシパル』は何話かちゃんと録画していて、いつか観なきゃなあと思っていたんです。ところがある日、何かの待ち時間に、スマートフォン版のゲームを落としてやってみたところ、「あ、これって、おいらの一番苦手なジャンルのパズルゲームだ……」という落胆から、アプリは消すわ録画も消すわという流れに。以下、よくある展開。



結局、10月10日までの無料期間中に第6話まで。そして先日、ニコニコptを使って無事に完走しました。時期遅れとはいえ、ちゃんと放送順を追って全話観たのは、ちょうど2年前の『Charlotte以来です。Charlotteつながりというのも不思議な縁。むしろ、おいらがあんまりアニメを観ていないという事実が再度伝われば幸いでっす。

で、第6話まで観ていた頃に、


と、松岡修造のシジミばりに自分を鼓舞していたところ、Twitter上で鍵の人から「抱え込む子が好みだと思っていたのでアンジェかと思いきや、ベアトとは意外だった(大意)」という反応がありました。ごめん。前半も若干違うし、後半はポストの中でも否定しているじゃんよ。どちらかと言えば、この頃に惹かれていたのはプリンセスです、プリンセス。第8話の回想と最終盤の立ち回りが光りますが、彼女のすごさは、アンジェたちと出会う第2話にあると思っています。はい。

どうでもいいんですが、第8話を観た後、「高貴な身分の子が、市井の子と入れ替わって戻れなくなった」という話を最近どこかで読んだのを思い出して、ずっと気になっていました。このブログを書いていたら記憶が蘇ったところです。R-18作品でした。ごめんなさい。

気を取り直して、今回はこの第2話のお話。以下、ネタバレ注意です。


時系列と放送順を入れ替えるという構成上、視聴者は第1話(case13)を観終わった時点で、プリンセスとアンジェたちは仲間になっていることを知っている。続く第2話と第3話が「case1」「case2」となるので、彼女たち背景や最初の接触の話と想像がつくわけです。すごく度胸がいる編成ですが、上手いですね。さて、プリンセス攻略のためアンジェとドロシーが乗り込んだパーティーで、コントロールから追加の緊急指令が。事故を装ってプリンセスと入れ替わり、さらにモーガン外務委員からチューリッヒ銀行の鍵を預かり、と、二兎を追う作戦が成功したかに見えた直後、パーティー会場に戻ったプリンセスが振り返りながら

「ところでアンジェ。そろそろ教えてくれない?」

「えっ?」

「西側のスパイがわたくしに何の御用かしら?」

橘正紀, 大河内一楼, 「case1 Dancy Conspiracy」『プリンセス・プリンシパル』#02,2017

わはー。やはりスパイ作品はこういう不測の事態がなくてはなりません。さらにプリンセスは畳みかけます。

「おじのノルマンデイー公が、もうじき到着するわ。知ってるでしょ? この国のスパイの総元締めよ」

「……用件は何?」

「アンジェ!?」

「まさか本当に!?」

「静かにして、ベアト。周りに気付かれてしまうわ」

「でも……」

橘正紀, 大河内一楼, 「case1 Dancy Conspiracy」『プリンセス・プリンシパル』#02,2017

そして不穏な歯車の音とともに到着するノルマンディー公の車。追っていた二匹の兎は、今や前門の虎と後門の狼に。問題はこの後です。

「目的は?」

「女王になりたいの」

「姫様っ!」

「あなたの王位継承順位は、第四位よ」

「あなたたちが手を貸してくれれば、一位になれるんじゃなくて?」

「国を売るおつもりなんですかっ!?」

「ごめんなさい、ベアト」

「っ!」

「わたし、悪い女だったの」

「……」

「話が大きすぎる。わたしたちの一存では決められない」

「では、決められる人に伝えてください。わたくしと手を組みましょう、と。回答が『Yes』以外だった場合、この場でお二人の正体を暴露します」

橘正紀, 大河内一楼, 「case1 Dancy Conspiracy」『プリンセス・プリンシパル』#02,2017

非常に切迫した内容が丁々発止で展開されるため、観ている側としては面白いのですが、おいらは第2話を観た直後、「いや、それ、おかしくね?」と五百回くらい思っていました。Cパートで「なぜプリンセスが正体に気付いたのか」は明かされるのですが、この取引をプリンセスが切り出す理由が無いんです。

プリンセス側に立って考えると、初対面でいきなり粗相をしでかした相手が十年前に別れた彼女だと明かされたとしても、それをもって信用するのはいささか博打がすぎます。もしかすると、「自分は黒蜥蜴星から来たスパイ」と妄言を垂れ流すだけの(だいたいあってる)シミ抜き得意な洗濯屋見習いで、ドレスで踊ってちゃっかりInstagramに画像を上げるような子に成長しているかもしれません。それは冗談としても、彼女が西側のスパイであるというのは紙片のみの情報です。彼女が実はノルマンディー公の手先で、うっかり欲を出そうものなら、「わたし、悪い女だったの」「まったく、そのようだな。シャーロット」とノルマンディー公が背後から現れてバッドエンドに一直線、というのはよくある話です。やうちさん、それゲームのやりすぎです。

逆に、これもアンジェの紙片の筋書きだったとしても、これまた危険な話です。プリンセスだって王室の中で揉まれて幾年月、アンジェが提示した取引に乗ってくれる保証はありません。というか、プリンセスにしたって、自分と似た顔を持った女が十年ぶりに接近してきて、「壁の向こうのスパイです。ちょっとドレス借ります」だけで済むとは思わないでしょう。どう考えても身の危険を覚えますよね。こっそりノルマンディー公に伝えて、お縄にしてもらいましょう、という心変わりがあっても不思議ではありません。時の流れって怖いですね。が、アンジェはかなりプリンセスを信頼しているようです。コントロールからの緊急指令が書かれたメモは、アンジェ自身が焼却しているにも関わらず、自分がプリンセスに宛てた紙片には、身バレという最大の禁句が載っているにも関わらず処分を指示していません。プリンセスが待機していたあの部屋、暖炉もあったというのに。

一方、この要求をするならこのタイミングしかない、というのも分かるのです。図らずもドロシーが「話が大きすぎる」と言ったとおり、必然的にコントロールに判断を仰がねばなりませんでした。プリンセスが「そうね。インコグニアから紅茶は持ってきているかしら?」とか可愛い球を投げてきたら、それはそれでアンジェも手配しちゃうだろうし、そんな感じで「じゃあ、また明日。ごきげんよう」となるルートも見てみたい気がしますが、いや、それじゃダメなんです。コントロールに届くような無理難題を投じて、我々同様に「初対面のはずなのに何故?」と思わせなければいけないんです。ある程度時間がたってから言ってきたとしたら、「AとDが校内でヘマしたか?」となりますが、

「プリンセスが独力でスパイを発見できたとは思えません。背後に何らかの勢力がいる可能性があります」

「分析屋は黙っていろ! これは重篤な国際問題だ。条約違反が露見すれば、紛争が紛争のまま終わる保証はない。下手をすれば世界大戦になるんだ!」

(略)

「軍として要請する! プリンセスの要求を受け入れよ!」

「プリンセスには、二重スパイの可能性があります」

「我々としては、内部にモグラを抱えるリスクは看過できない」

橘正紀, 大河内一楼, 「case1 Dancy Conspiracy」『プリンセス・プリンシパル』#02,2017

と、「事前の情報漏洩」という幻を追う方向に。この疑心暗鬼もスパイものの妙味です。素晴らしい。そして、ドロシーにしろコントロールにしろ、無駄のない、それでいて進行上不可欠な台詞が多いのも素敵です。さて、チェンジリング作戦の帰着点をどう設定していたのかは作中で描かれませんが、「プリンセスの気分に応じて入れ替わり」なんていうお花畑な運用は予想されないので、必然的に、替わった後のプリンセスに価値はないでしょう。ところが、着手時点で既に漏れていたとなれば、そうそう迂闊に手は出せません(と、おいらはこの時点で思っていた)。プリンセスの身辺に不審なことがあれば、一網打尽になりかねない。しかもその網の大きさを測りかねるわけですから、なおのこと。さらに是が非でも鍵を手に入れたい軍部の意向、それを含めた超臨機の判断、なによりこの後のアンジェからの通信というダメ押しもあって、ことは僅かな差で成功裏に幕を下ろします。

とまあ、切羽詰まった状況で「上に伝えざるを得ない」というのは、先にも書いたとおり「顔の似た女が急接近してきた」プリンセスにとって、身を守る「切り札」の存在を強くちらつかせることにもなるわけです。アンジェからしても作戦をご破算にしたうえで、プリンセスに手札を与えたことになるわけです。うまいなあ。そうすると、誰がために鐘は鳴ったのか、と考えるとやはりプリンセスでしょうし、危ういくらいの信頼を基礎にアンジェが、おそらくはあの紙片で脚本を伝え、プリンセスが演じたのでしょう。

そんな風に、考えていた時期がおいらにもありました。

まず、一つ目のダメ出しが第3話の冒頭で。

「とにかく、これでコントロールは欺けた。一緒に逃げよう。ルートは決めてある。カサブランカに白い家を用意したの。そこに二人で―――」

「駄目……」

「えっ?」

「言ったでしょう。あなたの力でわたしを女王にしてほしいの」

橘正紀, 大河内一楼, 「case2 Vice Voice」『プリンセス・プリンシパル』#03,2017

なんてこった。アンジェさん、コントロールを欺いて作戦を白紙にするどころか、ハナから高飛びする気満々じゃないですか。ということは、あの時点で「上げ」て長期保証を得る必要はなかったし、むしろ穏便に終わらせた方が目を盗みやすくなるじゃないですか。そして、あっさり断るプリンセス。あれですね、『カサブランカ・グッバイ』ってことですね。 だから歳がバレる。

アンジェによる筋書きではないとなると、小さな紙にびっしり書かれた第2話の紙片は何だったのか。もう一つのダメ出しはこれです。先に予想したように、一連の動きの台本じゃなかったんですか、とぐぐったら、海外の解析班がいい仕事をしていました。以下、引用でっす。

My dear Ange,

I have waited a long time for this moment. There are many thing I’d like to talk about.

But there is little time to explain my […]

I have become a spy like you became a princess.

I am a spy on a mission [?] […]

Would you lend me your dress for this purpose?

I’ll explain in detail later.

I have to take responsibility for your difficult […] to spoil your dress.

Your truly,

Charlotte

海外「このアニメの情報密度がヤバすぎる」『プリンセス・プリンシパル』2話「case1 Dancy Conspiracy」の海外反応 (mkmk団)

なんてこった。本当に「壁の向こうのスパイです。ちょっとドレス借ります(大意)」しか無かったよ。

となると、コントロールを交渉相手に引きずり出したのも、その結果、ありもしない背後関係という空の手札を匂わせるどころか、敵国の諜報機関との接点を持つという別の役札を手に入れたのも、プリンセスの発意ということ。なんてこった。おいらだったら「後で説明してくれるなら、とりあえずドレスが返ってくるのを待とうかしら」で終わりです。自筆の手紙をプリンセスに渡しても大丈夫と考えたアンジェ以上に、プリンセスはアンジェを信頼してあのアドリブ劇を敢行し、「後で説明するわ」で先送りしたアンジェの思惑を越えて、プリンセスはあの場を最大限に利用したということになります。この辺は、過去の分岐点から動けず、当時の信頼関係と悔恨の念に立つしかないアンジェと、過去の分岐点からのベクトルを信じていて、ここからの信頼関係で道を暗い森を開墾しようとするプリンセスの違いでしょうし、なんとなく、第2話のこの手紙と第12話のコキジバトのメッセージに二人の性格がよく出ているように思います。ともあれ、アンジェたちが出て行ってから戻ってくるまでの、おそらく十数分の間に、プリンセスはそこまで考えて待っていたというのです。あの密室で、「やはりこの格好では寒くなってきたわ、ベアト」「ひっ、姫様。ひめさまあああああ」みたいな過ちは無かったんですよ!!1 

閑話休題。上の方で「やはりスパイ作品はこういう不測の事態がなくては」などと浮いたことを書いてしまいましたが、観ていると、どうしても「アンジェたちがこの危機をどう脱するか」という視点になっちゃいます。ましてや、Cパートで「実は部屋を出る時に」というネタバレを披露されてしまうと、「なあんだ。やっぱりつながっていたんだね」となってしまうのため、モーガン外務委員から鍵を預かった以降の展開も通じていたように思ってしまうのですが、実はそうじゃない。肝心なところではプリンセスが鍵を握っていたんですね。 物理的にも。 そう思うと、というか、そこに思い至った時、おいらは、ぞわっとしました。この子、理念や理想だけの「お姫様」じゃない。いや、もう、こういう聡い子は大好きです。おいらは現実世界で賢い子に出会ったら全力でぶっ潰すと公言していますが(できているかどうかは知らない)、聡い子には勝てません。そういう子だと思いました。

おいらも「それにしたって、何も一国の王女がそんなに危ない橋を渡らずとも」と思っていたのですが、はっとしたのが直後の第4話。ケイバーライト制御装置の試作品を運ぶ船を追ったアンジェたちが橋の上で揉めるシーン。ふいにプリンセスが橋の欄干に上ります。

「姫様っ!?」

「わたしも行きます」

「駄目だ、そんなの!」

「訓練は受けました。それに、わたしが行けば、護衛を残さなくて済むでしょう?」

「……」

「待てよ、プリンセス。あそこはパーティー会場じゃないんだ。素人には危険すぎる。そこまでする理由を訊きたいねえ」

「あら? わたしならとっくに危険ですよ? スパイをやっているとバレたら、わたしは終わりです。これよりずっと細くて脆い橋の上に、わたしは立っているんです」

「だからって! 危険を増やすことはないだろう!」

「同じですよ。皆さんの失敗は、わたしの秘密に直結します。だったらわたしは、作戦が成功するために命を懸けなければなりません」

橘正紀, 大河内一楼, 「case9 Roaming Pigeons」『プリンセス・プリンシパル』#02,2017

そうでした。第8話の回想でも出てきますが、プリンセスはあの晩に初めて橋に立ったわけではないのです。これまでも、たった一人で、秘密と理想を携えてか細い橋を歩んできたのでした。第4話のやり取りの時点を第2話の場面に置き換えて考えれば、別に無謀な賭けでもなく自然な選択だったのでしょう。あの日の約束を果たすため、悪魔と友達になることに今さら何の躊躇いがあって?

おいらはですね、最終回までのどこかで「あなたの代わりに十年も役割を果たしてきたのに、今さら元に戻れっていうの?」みたいな感じで泣き崩れたりして、弱さをどこかで見せると思っていたのですが、まったく逆方向の使い方で叫ぶという鉄壁っぷりを見せてくれました。ぎゃー。ダメです。聡すぎて後光が射します。アンジェじゃないけれど、あなたはもうプリンセスですよ。というか、弱い子はお前の方だったのかよ! という。そんなプリンセスのプリンセスたる言動(回想を含む)は、第8話と第11~12話に集中しています。でも、プリンセスの確固たる意志の見せどころというのは、十数分の熟考の果てに単身挑んだあの場面にあるように思うのです。

★ 補記(11/02 16:15)

なるほど。『とある魔術の禁書目録』の第三王女、ヴィリアンとの比較というのは面白そうです。とエアリプ。

でも、『とある魔術の禁書目録』と言われ、おいらが最初に思い浮かべたのはヴィリアンではなく、最大主教のローラ=スチュアート。ローマ教皇がフィアンマと戦って敗れたという一報を聞いたときのくだりでっす。

「……善人め」

その言葉に、どれだけの意味が、想いが込められているのか。船頭には判別つかなかった。ローラ=スチュアートは見た目通りの年齢ではなく、積み重ねた経験の量も質もそこらの人間とはケタが違う。だからこそ、船頭にはローラの考えいている事が分からなかった。

「……されど、貴様は笑うていたのであろうよ。この善人め」

鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』第16巻,2010,p325

かつて「わたし、悪い女だったの」と告白した彼女が断頭台に上ったと聞いたとき、きっと誰もがローラと同じことを呟くのでしょう。アンジェから銃弾を百発撃ち込まれそうですが、おいらも心のどこかでは、プリンセスの描く結末が叶えばいいなと思っているのです。