前回の『決してわざとではなく。』では、『天気の子』の話をしようとして大きく脱線してしまいました。文中でもチラチラと「いつか感想を書く」みたいなことを匂わせてしまっていたので、フラグは回収しておきましょう。というか、結局おいらみたいな人間は、何かしらで書き残さないと自分の中で整理がつかないのれす。そして、今回の記事の題名は、そうは言っても感想になりきれない駄文に対する予防線と、英訳して「but nowhere near.」にするというもう一つのフラグの回収でっす。以下、ネタバレで思いついたままにだらだらと。
決してわざとではなく。
立続けに台風が爪痕を残した後に書くのは若干腰が引けつつも、今さらながら『天気の子』関係の話でもしようかと。いろいろあって、公開から約1か月後の8月に観ました。直後感想がさっぱり要領を得ないものなので、今でも恥ずかしす。
いやだってさ、TLでの事前のろくでもない話を総合すると、キーワードが「離島」と「エロゲ」に収斂されているから(ひどいTLだ)、「えっ。離島で展開されるエロゲ的な話ですか!?」みたく半信半疑で観るわけじゃん。
観終わったおいら:離島だわー。エロゲだわー。 #感想が極めて貧弱。— やうち。 (@Yauchi) August 24, 2019
そうだねえ、離島だったねえ、エロゲだったねえ。というわけで、今回は「離島」の「エロゲ」の話をしましょう。そうしよう。3行前のことなんか忘れた忘れた。
怒られてしまいそうだけれど、もともと離島というのは「大多数のユーザ」から遠い場所になるので、諸々の設定が可能になるので極めてゲーム向きです。そのため、まったくの想像上の島で話を展開することだって可能なのですが、律儀にも実在の島を舞台にしたりモデルにしたりした作品もあるのですね。
そういう前振りの下、ド直球で書くとすれば、『天気の子』と同じ神津島がモデルになっている『この青空に約束を』になるのでしょう。でもダメです。おいらが神津島に行ったことがありません(おい)。とは言え、そもそもおいらが行ったことのある離島って少ないんですよね。離島振興法で指定される255島の離島振興対策実施地域 [pdf]のうち、行ったことがあるのは3島しかありません。さらに言えば、複数回訪れたことのあるのは1島しかありません。それが、今回の話で取り上げる山形県は酒田市の飛島です。酒田市は、いろいろな都合もあって比較的立ち寄ることの多い街ですが、航路を使わないと行けないため、飛島まで行く機会はあまりありません。
そんな酒田の市内や飛島が舞台になったアダルトゲームが、2011年に「しゃんぐりらすまーと(現在のあかべぇそふとすりぃ)」が出した『恋ではなく ―― It’s not love, but so where near.』です。R-18なので、公式へのリンクの代わりにWikipediaの項目とニコ百の項目へのリンクで勘弁してください。っていうか、なんで両方とも記事があるんだよ。
「離島」と「エロゲ」でなんでこの作品が浮かんだかと言うと、このゲームは実際の街並みや風景をかなり忠実に背景で再現しているんです。さきのニコ百にも
上述の通り、本作の舞台である田舎町は山形県に実在する港町・酒田市である。そのため、作中で登場する舞台(川沿いの通学路、商店街、公園など)も酒田市内の実際の町並みや風景が再現されているのも特徴。具体的には、
- 川沿いの道(通学路):新井田川の川沿い(風景的には酒田消防署近く?)
- 山居橋(ロケ地):同じく新井田川沿いの橋、及び山居倉庫のある通り
- 商店街:酒田市中町商店街(清水屋のある通り)
- 公園:日和山公園。灯台や千石船、そして海が一緒に見える桜の名所としても知られる
- 飛島港:山形県唯一の有人島・飛島と酒田を繋ぐ港。旅客船「とびしま」や貨物船「かもめ丸」が行き来している
など、かなり高い再現度である。
まあ地元民くらいにしかわからないのが残念だが。
と、わざわざ書いているくらい。でも、「田舎町」言うな。作品中でも、省吾が見下すような感想を言ってたしなめられたり、典史や祐未が卑下するようなことを話して友情出演したすーぱーそに子にフォローされたりしていましたね。確かに、現実の酒田市を見ても「何もない田舎町」という感じはありません。どちらかと言えば、「都会になり切れない感じ」が切羽詰まっているように思います。あはは。あと、ニコ百は「地元民くらいにしかわからない」とか言うなし。
――む。であるならば、実際にどのくらい丁寧に描かれているのか、紹介することにしましょう。おっと、その前に。
この作品のいいところ
トモセシュンサクの絵もいいのですが(ここを話し始めると長くなる)、シナリオもいいですね。ニコ百の「概要」にもあるとおり、自主制作の映画を撮ろうとする登場人物たちは、撮影を通じた人間関係や、互いの才能、社会のどうにもならない枠組みといった有形無形の力をぐりぐり受けて、それぞれに成長していくわけです。特に、写真に対する情熱ほとばしる男性側の主人公である典史と、ファッションモデルとして東京と酒田を行ったり来たりする女性側の主人公である祐未の二人は、古傷の痛みに耐えたり、自分たちが社会で通用するかと悩んでみたり、同年代よりはるかに高次元で身と心を削り合っていきます。はっきり言ってエロゲっぽくない。おいらは登場人物たちの年齢の頃に、こんな風に自分の才能とか将来だとかを考えたことはさっぱりなかったからね。それはもう、満月のワンタンよりも薄っぺらい子でした。なので、テキストを追っていて苦しくなるというか、なんていうの、『耳をすませば』の「てんでレベル低くて、やんなっちゃうね」的な感じで十六羅漢から身を投げたくなります。登場人物やテーマが青春小説っぽいにも関わらず、中身の精神年齢がそれよりも上で描かれているという点では、確かにアダルトなのかもしれないです。もうドラマ化しちゃえばいいのに。
また、ゲーム内で祐未が「……まったく、写真バカはこれだから……」と言っているくらい、登場人物たちは揃いも揃ってカメラに対する、というか写真や映像に対する熱量が半端ないです。むしろ、祐未も大概です。カメラという媒体は、何かを表現したいお年頃のお供にするには格好のモノであると同時に、個人的には酒田が舞台になった決め手でもあるように思います。昭和の名写真家である土門拳が酒田の出身ですし、市の中心部から少し外れたところにある飯盛山公園には、日本初の写真専門美術館である土門拳記念館が建っていますからね。おいらも酒田に行ったときにはたいてい土門拳記念館に立ち寄ります。もっとも、芸術全般に善し悪しが分からないおいらなので、作品鑑賞が目的というわけではなく、定期的に展示されている川端康成の写真が目当てです。康成については、『天気の子』関係で後ほど触れるのですがそれはさておき、土門拳が数多く撮影した肖像写真の一つで、恐らく最も有名なのがこの康成ではないでしょうか。昭和26年に撮影されたらしいので、既に五十代に入っている頃。それでもこの強い眼光と澄んだ瞳。記念館では間近で見られるため、目に反射した景色が見えそうなほどで、もう参ってしまいます。
さて、ゲームの中身に戻りましょう。お話は3ルート(扶・亮輔・尚人)+グランドルートの4つの結末があります。個人的には、写真部の美月部長を攻略するルートが無かったのがショックでした(しろめ)。4つのお話とも、それぞれに誰も幸せにならないこともなければ、誰もが幸せになることもないし、少しのボタンの掛け違いで微妙に違う結末に終わるというのも面白かったです。ただし、どれも暗さとくどさがあるので、好みが分かれそうです。というわけで、ぶっちゃけエロシーンはスキップしていいから(おい)、一度やってみてくらさい(おいおい)。 “決してわざとではなく。” の続きを読む
射落された鴉のような姿をも。
かつて、大正昭和の文豪は
おれのようなやくざな人間の死も死にあたいするであろうか。おれの投身はきっと群衆を駆り集めることはできるであろう。今まで平和でいたひとびとの表情をしばらくは掻き乱すことはできるであろう。しかし次の瞬間には、ただ何事もなく、波紋のおさまるように人人は又平気で、先刻に考えていたことを更に考えつなぎ、愉楽するものはその方へ急いでゆくであろう。そこにおれは何の値せられるものがないのだ
幻影の都市 (青空文庫)
と書いていましたが、さて実際のところはどうなんでしょ。
という書き出しでピンと来た人がいたら大したものです。というか、おいらの引き出しの少なさが露呈するだけですね。およそ2年前に「ある女性作家の死まで。」で取り上げた台湾の女性作家のお話です。別に3回忌というわけではないし、おいらもあまり気乗りしない話題ではあったのですが、このところの日本国内の別の事件事故を見ていると、触れておいた方がいいかなと思ったので、あえて書きたいと思います。
前回のエントリでは、亡くなった女性作家の両親が「自殺の遠因は、数年前に塾講師からなされた性的被害だ」と公表したことをかなり否定的に書きました。そういえば、同年後半に世界を席巻した「Me Too」の走りだったと言えるかもしれません。繰り返しになるけれど、性犯罪を肯定するつもりはないです。遺族が断定的に「自殺の理由」を明かすという行為にドン引きしたのです。
さて、じゃあ今回は何にドン引きしたかという話の前に、まずは2年前のエントリ以降に起きたことをざっくり時系列で。あ、今回も基本的に亡くなった作家さんの名前は出しませんし、自殺の遠因になったとされる講師の名前も出しません。あしからず。
主なものを中央社の記事から拾い上げていきましょう。2017年5月6日の中央通訊社の記事によれば、亡くなった女性作家の両親が「娘は生前、他に3人の子が同じような被害を受けていた、と言っていた」と声明を発表。件の本の記述と全く同じ状況ではないものの、一部は似た点があるとのこと。一方、講師も同月9日についに沈黙を破りました。台南地方検察署に対し説明をしたうえで、塾を通じて声明を発表します。同月10日の中央通訊社の記事に声明が載っていますが、その中で、彼は作品の登場人物の名前を引き「私は李国華ではない」と全否定。もっとも、これは出版記念の座談会で彼女が言った「私は、本当に(主人公の)房思琪ではないんです」という回答をトレースしているようにも見えます。そういう余計な小ネタを挟まなきゃいいのに。さらに、彼女のこの言葉を踏まえ、「小説はフィクションの手法を用いており、自伝ではない。私は創作者を尊重し、コメントは控えたい」と半ば挑発的な点も。一方で、「2か月ほど交際していたが、彼女の両親の知るところとなり、別れさせられた」と微妙な告白もあったため、割と火に油な感じもあります。同じ記事には、本件の急先鋒でもある民進党の立法委員の林俊憲がFacebookで「絶対にやめない! 絶対に見逃すわけにはいかない!」とブチ切れたことも書かれています。また、この声明では、加熱する報道に対し、家族や友人、業界の人々を巻き込まないでほしいと訴えていましたが、同じ10日の中央通訊社の記事では、この講師の娘がモデルとして所属する事務所が、ネット上で言われている「この講師が立ち上げた事務所」という点はデマである、と打ち消したうえで、電凸の被害に遭っていることを公表したことが書かれています。日本でもこういうのありましたね。しかし、オンラインもオフラインも動きは止まらず、翌6月20日の中央通訊社の記事では講師の娘が、また同月25日の中央通訊社の記事では、「別の出版社で、高い評価を受けたにもかかわらず、裏切られたことがある」という台湾のネットメディア「報導者」の記事から「その出版社では?」とネット上で糾弾された出版社の社長が、それぞれ自殺未遂に至ったことが報じられています。なお、同月26日の中央通訊社の記事によれば、「報道者」側が「(一方の主張だけを掲載したことについて)公平な報道という点が欠けていた」として謝罪しています。
そして、時期は前後しますが、5月9日には小説の出版社がFacebookで声明を発表。死後に「自殺の原因は講師だ」という両親の声明を出した出版社です。同月9日の中央通訊社の記事にFacebookの全文が転載されていますが、いわく「出版社として両親の声明を出したことについて、社内でも連日にわたって議論と検討を重ねた結果、やはり落ち度があったので、謝罪と釈明をしたい」とのこと。えええええ。
自4/28以來,對於各方的關心,我們有些話想說。尤其是以出版社身分代轉奕含父母聲明一事,經過社內連日的辯論與檢討,是認確有疏失,需要公開道歉與交待。 首先報告當時的處理經過。4/28的凌晨至上午,我們都與奕含親友持續聯繫著,同時也不…
游擊文化さんの投稿 2017年5月8日月曜日
事態が急展開したのは同年8月22日。台南地検署は「具体的な犯罪の証拠が無かった」として、講師を不起訴とします。8月22日の中央通訊社の記事によれば、女性作家の同級生の証言や講師との電話の記録を見ると、初めて会ったのは16歳以降であったこと、初めて男女関係を持った時には既に教師の生徒という関係になかったこと、カウンセリングの記録を見ても強制されたとは読み取れないことなどを検察官が記者会見で説明しています。当事者の片方がいないとはいえ表面的な感じは否めないし、カウンセリングの記録ってそこまで出していいのかなっていう気もしますが、とにもかくにも終幕を迎えました。
ってなるはずがなくて、例えば同月22日の中央通訊社の記事によれば、台湾の女性団体である婦女新知基金会は、台湾には性別平等教育法があるにも関わらず保守系団体の圧力によって中身が伴っていないという指摘をしたうえで、彼女の作品を高校生の教材にしようと訴えました。また、元検察官で弁護士の楊智綸は同日の中央通訊社の記事で、精神疾患と過去の性的な被害および自殺との因果関係を明確にするのは困難ではあるけれども、としたうえで、過去の性的被害が長期にわたって精神的な悪影響として累積し、自殺に至ったということを、検察が考慮しようとしていない、と指摘しています。さらに同日の中央通訊社の記事によれば、当時の台南市長である頼清徳は、この性的被害から自殺までの流れを事実だとしたうえで、法的な制裁はなくとも良心の呵責からは逃れられないし、因果応報となるだろうとコメントしています。え、いや、うん、おう。
こうした反発もあってか、当初は翌23日に予定されていた講師の記者会見が当日になって中止となり、23日の中央通訊社の記事によれば、代わりに弁護士を経由してコメントが出されています。いわく、自らの道徳的な過ちについて、女性作家の家族、自分の家族、講師だった頃の同僚、社会の人々に改めて謝罪するとともに、メディアに対しては女性作家および自分の家族が平穏を取り戻せるよう求めています。
その要請が功を奏したというわけではないでしょうが、2017年の後半以降はニュースにもほとんど登場しなくなります。暮れに行われた一年の振り返りで、Yahoo奇摩が行った「話題となった人物」のネットアンケートで、女性作家が1位になったことが同年12月1日の中央通訊社の記事に出たことや、Openbook好書奨で中国語作品賞に選ばれたことが同月2日の中央通訊社の記事で報じられたこと、同月21日の中央通訊社の記事にも出ているとおり博客來で年間売上トップだったことあたりで再び名前が出て来ているあたりでしょうか。
事態が大きく動いたのは、女性作家が世を去って間もなく2年になろうかという、今年4月の頭です。はい、こっからが本題でっす。もう疲れたからあまり書かないけれど。
4月5日、中国のSNSである微博で、「あの講師が、名前を変えて福建省福州市の学校で教えている」と、その学校の微博などから引いた画像とともに投稿されました。それにしても、そこまで書いておきながら、「公のもとに裁きたいわけではなく、誰かの地位や名誉を失わせたいわけでもない。ただ、第二の房思琪を防ぎたいだけだ」というのは、ちょっと余計な予防線の張り方ですよね。
ポストした主の予測を超えたかどうかはわかりませんが、末尾にあった拡散希望のお望み通り、瞬く間に微博で拡散し、中華圏のニュースサイトに飛び火します。同じ5日のNOWnewsでは、学校側の微博を引用し、教師の交流に伴うオンライン上の講義であり、また正式な契約をした講師ではないとの釈明を載せています。さらに同月6日の中央通訊社の記事では、2年前の顛末まで含めて経過を列挙。何もそこまで蒸し返さなくても。しかも、同月8日の中央通訊社の記事によれば、福州市の教育局による調査チームの要求を受け、オンライン講義はあえなく閉鎖されたとか。ふええ。
おいらは、決して講師の男性を擁護する気はないのです。2年前の記事でも、
彼女のような境遇の者が二度と出ないように、また境遇と結びつくかはさておき彼女のように自ら命を絶つような者が出ないように、何よりここまで大きな話になってしまった彼女自身に平穏が訪れるように、そう願わずにはいられません。
ある女性作家の死まで。 (やうちさん、ニュースだよ!)
などと、この微博と似たようなことも書いていますしね。でも、この微博の「第二の房思琪を防ぎたいだけ」というのは、「燃料は投下した、さあ炎上させたまえ」と思いをごまかすためのものにしか見えません。上に書いた検察の不起訴の理由も微妙だなあとは思っていますが、だからといって、起訴に至らなかった過去の事実に絡めて、その人物の現状を晒すという行為に大きな悪意を覚えます。ましてや、その悪意を覆うように、かかる行為に正義があるがごとく振舞うことにドン引きです。なんだかなあ。
翻って日本国内を見ても、春先から似たような出来事がありました。世の動きが自分たちの考える正義とやらと異なっていたとしても、その意味を考えることなく騒ぐことが、ましてや個人をつつくことが正しいと言えるのかしらん。社会的制裁と言えば聞こえはいいけれど、罪は事実に依って認められるべきだし、罪は法に依って罰せられるべきなのです。よく「既に社会的制裁を受けている」として罪が減らされることがありますが、おいらは、あれって社会的制裁を助長しているような気がしてなりません。周りの熱に乗じて拳を振り下ろした側は、やがて忘れていくのが常ですが、今回の微博のように2年たって再び熱を帯びていったのを見ると、恐ろしさを禁じ得ません。水底に棄てられ沈められた諸々のものが浮かび上がるときって、往々にして「詳しいことは忘れたけれど、また叩かれても仕方ない」ってなっちゃうんだもの。