11月25日、台湾最大の映画賞である金馬奨の表彰式が台北で行われました。今年は第60回という節目の年で、また李安が審査委員長に復帰したということで、事前に日本でももう少し盛り上がってもよかったように思うのですが、さほどでもなかったような。しかも、最優秀作品賞に日本で製作された『石門』が選ばれたというのに、これもあまり話題にならなかったようで、ちょっと残念です。
この60回目の金馬奨にあたって、中央通訊社は「金馬が駆けた60年を回顧~中国語映画のオスカーはいかにして錬成されたか」という特集ページを作成しました。そうか。60年という歳月は、単に10の倍数でキリがいいというだけではなく、一甲子という重要な節目でもあるわけだ。記事では、第1回金馬奨が行われた1962年(1964年と1974年は開催されていないため、第1回は59年前ではなく61年前)よりも前の時代に「中国語映画を普及させるための道具」として政府が推し進めた、というところまで遡って生々しく書き出しています。その後も、最優秀作品賞を受賞した作品や、作品にまつわる逸話を交えながら、時計の針を進めていきます。おいおい、Wikipediaかよ。どうでもいいけど、今の日本語版Wikipediaの「金馬奨」の項は、おいらが16年前に中国語版から翻訳して書き加えたものが原形。てへぺろ。
ちょっとびっくりしたのは、唐突に「1971年に中華民国が国連を脱退」という小見出しが出てきたところです。文化面ではあまり影響がなかったはずでは、と思いきや、記事では「多くの国と断交し、同時に産業の転換や十大建設を経験した。このような時代の下、金馬奨は異なる顔を見せ、抗日愛国映画が毎年エントリーされ、台湾の発展を記録する映画が受賞作品の中心となった」と触れています。紹介されている作品は、『英烈千秋(1975年の第12回金馬奨で最優秀民族精神発揚特別賞)』と『梅花(1976年の第13回金馬奨で最優秀作品賞ほか)』。へえ。『梅花』ってそういう映画だったんだ。こういう時代があったというのは、知らなかった。勉強不足でした。さらに1975年の蒋介石の死去により映画界にも変化の兆しが見え、1980年代のいわゆる台湾ニューシネマに突入していくと。うん。このあたりになると、ネトウヨなおいらの知識にもあります。さらに、映画界にとっても一大転機となったのが1987年の戒厳令の解除。引いてくる作品は、ご存じ『悲情城市(1989年の第26回金馬奨で最優秀監督賞ほか)』ほか。さらに1996年には大陸の作品にも門戸が広げられ、以降の「中国語のオスカー」として成長を遂げ現在に至る、と。こうして見てみると、(実態は別にして)映画でも大陸との隙間が生じている状況に対し放った最後の李安の言葉ではないけれど、日本資本で製作された『石門』が評価されたことは、かえって金馬奨の揺るぎない自信を示しているように思えてきます。
記事ではこのほかにも、貴重な写真・映像を交えて過去60年間の映画史を振り返るページや、金馬奨の受賞にに限らず海外でも著名な台湾映画を紹介するページ、全60回の最優秀作品賞の受賞作を時系列で確認できるページがあり、資料としても見ごたえ読みごたえがある特集でした。さすが中央通訊社。
こうして改めて最優秀作品賞の変遷を見てみると、おいらが観たことのある映画って少ないなあと思いました。というか、『天浴(1998年の第35回金馬奨で最優秀作品賞ほか。邦題は『シュウシュウの季節』)』と『可可西里(2004年の第41回金馬奨で最優秀作品賞ほか。邦題は『ココシリ』)』だけなので、そもそも台湾映画ですらなかったわ。あれえ。
悪魔と深く青い海とのあいだに。
7月24日から27日にかけて、台湾では市民をも対象とした軍民連合防空演習、萬安46号演習が行われました。台湾を4地区に分けて、4日間で順番に行っていくものですが、中部地区を対象に実施されるはずだった最終日は、台風5号の影響で中止になっています。
萬安演習の特徴は、単に防空警報を鳴らしたりスマホにメッセージを飛ばしたりするだけではなく、実際に「市民に」地下に避難させるところでしょう。「市民を避難させる演習」ではなく「市民に避難させる演習」という方が近くて、合図とともに市民は地下の避難施設に移動しなければなりません。上の国防部のリンク先にもあるように、従わずにいた場合には3万元から15万元の罰金が科せられるので、「市民を避難させる」要素もあるのだけれど、まずは行動させるところが流石というかなんというか。特に旅行者にとっては何が起きたのかさっぱり分からないでしょうから、日本の外務省の海外安全ホームページや交流協会のWebサイトでも注意喚起していました。まあ、だいたいこういうのって、見てほしい人ほど見ていないものなんだけど。ところで、日本でも地震や火災等を想定した避難訓練があちこちで行われますが、どちらかと言えば「そのときに参加できる人が参加する」任意の行事という色が濃いので、いざという時にどこまで役に立つのかなという気がしてなりません。非常時に即応した行動って、びっくりするほど何も取れない、というのは、自然災害の多い我が国の人であれば相当の割合で知っていそうなものなんだけれど。過料の類を科すことの是非は置いておくとしても、やはり30分だけであっても「みんなが動く」というのは大事だなと思いました。
この萬安演習、コロナ禍においても実施されていたのですが、2020年と2021年は実際に市民が避難する形式にはなっていませんでした。そうだったのか。去年のイメージがあったから、ずっとやっていたのかと思ってた。
今日から会議出席と要人との意見交換のため、台湾出張。河野太郎さんと来るはずが、コロナで急遽私1人に。。
到着早々、台湾北部の防空演習でサイレンが鳴り響き、30分間一切の外出が禁止に。台湾の危機感が伝わってきます。私は外交バブルでの入国なので、そもそも原則ホテルから外出できませんが。。 pic.twitter.com/nHR3wQjyu1— 鈴木馨祐(けいすけ) (@SuzukiKeisukeMP) July 25, 2022
いや、むしろ、なんで萬安演習の日に行ったんだろうって思うけど。
— やうち。 (@Yauchi) July 25, 2022
まあ確かに、短時間とはいえ多くの市民を狭い空間に集めるわけだから、2020年以降はかなり判断が難しくなるよね。2022年は、新型コロナの状況に加え、ロシアによるウクライナ侵攻という世界情勢の変化もあったから、より判断に悩んだことと思います。
そうした「高まる緊張感」という観点で、演習最中の台北を取材したのが24日のテレビ朝日、というか報道ステーションと大越アナ。
人口約250万人の台北市。24日午後1時半、警報が響き渡りました。1978年に始まった年に1度の大規模演習です。市民は地下や建物に避難し、車やバスは路肩へ止めるよう求められます。路上からは、市民の姿が消えました。
おいらも、地下の避難場所ってどれだけあるのか知らなかったのですが、これにはちょっと驚きました。一朝一夕でできるものではないし、今なおそれらを使うかもしれないと考えているところに、なお恐ろしさを覚えるのです。また、萬安演習だけではなく、民間団体による講座やイベントも取材しているのが目を引きますね。戦争は、もう廊下の奥よりも近い位置にあるのだという予感を伝えています。公式行事だけではなく、市井の目線から台湾の危機感を捉えその答え合わせを図るあたり、流石だなあ。
同じような視点で伝えていたのが27日の中央通訊社の記事。何気ない日々から緊急時への切り替わりは一瞬のこと。だからこそ危機と日常との間を行き来できる術が重要なのだと、そう言っているような記事題でした。
中身を見ていくと、大越アナのレポートに出てきた内容よりも幅広く、より濃い内容です。民間防衛の実情が取り上げられているので、読んでいるこちらも重たい気持ちになってきます。射撃訓練、アマチュア無線、応急処置。緊迫した空気が、文章や写真から漂ってくるようです。銃はさておき、こうした備えは日本にも無関係なのかな、と一瞬考えます。記事の最後にもあるように、市民が恐怖に震えるような段階ではないにせよ、あらゆる災難に際して、それらの技能が自身や周囲りの人の身を助けるのは間違いないわけで。
生と死を分かつ二つの手のひらに。
前回の「君と夜の隅で。」というエントリの題名については、はてなブックマークで謝ったとおりです。おいらは歴史クラスタでも文学クラスタでもないので、戦争文学の基礎中の基礎とも言うべき作品に手を付けたことがありません。
という弁解(になっていない)をはてブで書こうとしたのですが、文字数の関係で後半は載せられずじまいでした。まあ、無理して入れるほどの面白いことでもないしね。ついでと言ってはなんですが、そのこと関連して思い出した、同じ2022年のアニメ映画のことでも。察した方もいるかもしれませんが、新海誠監督の『すずめの戸締まり』でっす。え、今さらですか。今さらです。『天気の子』も、公開から5ヶ月後くらいに感想を書き連ねていたので、それと大差ないでしょう。
この映画、最初の印象があまりよくなかったのを覚えています。その最大の理由は、周辺で最初に観た人の感想でした。いや、面白いとか面白くないとか評価を言われたわけでもなく、超絶ネタバレを食らったわけでもなく、むしろ本人は極力回避しようとして作品を表現したのだと思う。曰く「あの映画は『震災文学』です」と。
それを聞いて、おいらは顔にも出たんじゃないかというくらい「えぇ……」と引いたはず。だって、その子は首都圏の生まれだし、地震のときも関東にいたはずで、何をもってそう表現したのか分からなかったから。そりゃ、おいらだって先の大戦を経験したわけではないし、上に書いたように戦争文学の「せ」の字も読んでいないけれど、アニメ映画『火垂るの墓』はトラウマだし、かつて「おいらに影響を与えた50冊。」を選んだときには『流れる星は生きている』も挙げている程度に齧っているつもりなので、「戦争文学」なんて言葉を使います。でも、戦争を描いた作品が一つの分野を築いたのは、国民の大部分が悲惨な体験を大なり小なり共有していたり、学校教育を通して基礎となる知識が備わっているから成り立つところがあるように思うのです。その点、あの震災は同じ国内であっても体験にあまりに濃淡があるので、距離感がすごく難しい。もっと言うと同じ被災県内でも難しくて、例えばNHKの連続テレビ小説『おかえりモネ』は、その点をド直球に突いてくる描写があって、ちょっと辛くなっておいらは早々に脱落しました。悲惨な体験に近いところを描けば描くほど、遠目の人が入っていけず観客になってしまう。それでもいいんだけど。逆に遠目の人が受け入れられるように話を仕立てると、あまりに離れたところの作品が出来上がってしまう気がして仕方ないのです。それは、福島第一原発の処理水の問題なんかを見ていても、今なお温度差を感じるわけだけど。
そんなことがあったので、事前にけっこう懐疑的というか、余計なことを考えてから観に行ってしまったのですね。いちばん謎に思っていたのは、なんで11年も経過した時期に作ったんだろう、という点。記憶が生々しいうちではなく少し時間を置いたから? いや、でも開けすぎて観客に伝わるのかな? とか。もちろん、戦争文学のうち自身の体験を綴った作品でも、終戦から月日が経って上梓されたものは数多くあって、例えば野坂昭如が『火垂るの墓』を発表したのは戦後20年以上が経過した1967年のこと。そういう意味では、これから先も、多感な時期に震災を経験した世代に筆致が備わってきて、優れた震災文学が出てくるのかもしれない。その時に、どれだけ多くの人を引き付けることができるのかと考えると、記憶や知識の共有という点で、やはり第二次世界大戦のそれとはちょっと違うような気がする。
すでにいろいろ書いてしまったけれど、以下、ネタバレで思いついたままにだらだらと。おいらの体験を極力書かずにいきたいと思います。